第6話「名前教えてくれないの」

彼がモーニング用の看板を出し終えて店に戻った時、少年と青年の間のような客がひとり、カウンター席にぽつんと座ってメニューを眺めていた。

青年はトワと名乗った。


冬の朝。看板を出すだけの間外にいた彼でさえ鼻と頬を赤くしているというのに、トワはまるでずっとそこにいたかのようなつやつやとした皮膚をしている。

「ベーコンエッグトーストと、あ、これセットって、クリームソーダにもできる?」

人懐っこい顔をして笑い、トワは言った。

「100円ばかし、お高くなりますよ」

「お金は持ってきたから、大丈夫!」

勢いのよいトワの言葉に、思わず笑う。通りのいいのびのびとした声で、まひるの太陽のような笑顔。

まるで小説に出てきた神さまのようだと、彼は思う。

さて神さまに出すのなら、とびきり美味しいベーコンエッグトーストを作らなくてはならない。腕まくりをして、ついでに肩のシャツガーターもいつもより少しだけきつめに。

ニコニコと見つめるトワに笑いかけ、「任せてください」と胸を叩いた。


フライパンをあたため、ベーコンを焼く。脂が跳ね始めたらぐるりと一周菜箸で回して、コンロの脚にひっかけフライパンを傾ける。

ベーコンはひっくり返して火の反対側へ寄せておいて、いい油の溜まった方へ、卵を割って落とす。じゅう、という小気味好い音に、トワのはしゃぐ声が聞こえた。

「目玉焼きと、スクランブルエッグは」

「スクランブルエッグ!」

栗色ーーといっても中身の方だーーの細い髪をきらきらとランプのひかりに揺らして、トワはまた笑う。

細い菜箸で卵を混ぜている間もそうだった。

「今日はまだお客様がいませんから、とくべつです」

ふわふわの卵、かりかりのベーコン。仕込んでおいたトースターがチン、と音を立てるのと同時にコンロの火を止めて、あつあつさくさくの4枚切りに包丁を入れる。

ざくり。ざくり。

半分に切ったら、淵に細工の入った白い丸皿に紙ナプキンを敷いて、トーストを四角に並べ直す。ベーコンも半分に切って、片側ずつに乗せる。最後にその上にふわとろの卵を山にして、きもち粗塩と、粗挽きの胡椒。

オープン前に盛り付けた小皿のサラダを取り出して、昨晩仕込んだばかりのドレッシングをスプーンにすくってかける。

丸皿に小皿を載せて、完成だ。

「どうぞ、お召し上がりください」

トワはおしぼりの封を嬉々として切って、北海道あたりの湖のようなすきとおった目をきらきらと輝かせて、いただきます!と声を上げて、大口でトーストを頬張る。

「クリームソーダは、すぐにご用意しちゃってもいいですか?」

彼が問いかけると、トワは頬をぱんぱんに膨らませたままで勢いよく頷いた。

口の端についた卵とパンくず、うれしそうに上気して、ほんのり染まった肌。これだけ美味しそうに食べてくれるのなら、振る舞いがいもあるというものだ。


製氷機から手仕込みのバニラアイスを取り出し、グラスに氷とメロンソーダを注いで、たっぷりひとすくいのバニラアイス。まだ早いかな、なんて思いながら、シェリー酒とシロップ漬けのさくらんぼを添える。

すらりと長いスプーンとストローと一緒にクリームソーダを出す頃には、トワはトーストを半分食べ終わっていた。

「もっと早く出てくればよかった」

ほんとうに、神さまのようなことを言う。

彼がそう思って笑っていると、トワは口の周りの卵とパンくずを指に拾って食べながら、目を好奇心でまんまるにした。

「ね、名前教えてくれないの」

ぼくは教えたのに。

彼は、いたずら心がむくむくと育つのを感じた。栗の実の髪に湖のひとみをした彼がほんとうに神さまなら、今まで何度となく客と交わした自己紹介だって知っているはずだ。

応えるのが礼儀と思いながら、彼はひとさし指を一本立てる。

「ないしょです」

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短編まとめ 魚倉 温 @wokura

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