第5話「でもそれって、結局君の自己満足でしかないよ」

「ミルクレープを一枚ずつ剥がして食えって、言ってるようなものだと思うな」

私の目の前の席で、別れたばかりの元妻が言う。喫茶店に寄るといつもしれっとソファ席に座り、私に椅子をよこすひとだが、彼女いわく。座りたいなら隣においでよ。

私の知る中でいちばんの自由人だと思われる彼女は、別れ際も自由だった。

「ハンバーグをね、肉をミンチにするところからやる人ってとても好き。だから貴方と結婚したけれど、私たち夫婦じゃなくて恋人同士の方がうまくやれると思うの」

そう言って、返事も待たずに彼女はランチセットでいちばん高い、ビーフシチューハンバーグのドリアを頬張った。

それがつい数十分前のことだ。


時間を気にせず過ごせる時だけ来てください。マスターが以前言ったように、この店には時計がない。私もまた、この店に来るときには腕時計を外して、鞄のいちばん奥のポケットにしまうことにしている。

だから正確な時間は分からないが、彼女のドリアの減り具合から見てそのくらいだ。

私は素直に頷いた。

きっと私たちは恋人同士に戻るのではなく、ラブホテルに行って大きなトーストや店屋物を頼み、ジャグジーに浸かりながら大画面で映画を流して泣いたり、アダルトビデオを流して大笑いをするような関係になるのだろう。そう思ったからだった。

「ミルクレープを剥がして食べるのは、たしかにとても大変だ」

私は、ケーキセットで頼んだミルクレープをフォークで切りながら答えた。

箸を使えばやれるだろうか。

市販の、クレープ生地の分厚いのならいけるかもしれない。でもこの店のは、きっとつまんだはしから千切れてしまう。

「そう。それを貴方に強いてるのが嫌だった。とっても嫌。でも、貴方はいい人だし優しいから、私が好きだって言ったってだけで作っちゃうでしょ?」

そういうとこも好きなんだけど。

私の好きな彼女の笑顔が、戻っていた。

ここしばらく、ずっと何かに悩んでいるようだったから、別れてよかった、としみじみ思う。

軽めのブレンドコーヒーを一口飲むと、ミルクレープの甘ったるさがほどよく流れた。

「僕も、君のことがとても好きだから。そうやって笑ってくれるようになったのが嬉しいよ」

クリームなんかより甘ったるい台詞も、今だけは許される。そんな気がする。

彼女はまた愉快そうに笑って、言う。

「でも、その好きって愛でしょう」

3分の2ほどになったハンバーグドリアを、ひとくち分乗せたままのスプーンを置いて。

「恋してるひとは、私じゃない」

シトロンクッキーを齧りながら。

「正解でしょ?」

花の咲くように、楽しそうに。


「私も貴方を愛している。でも恋じゃない。だから、貴方がほかのひとに恋をしてるなら、そのために私を置いてったっていいと思う」

すっかり冷めたコーヒーに砂糖を入れ、スプーンでくるくると混ぜながら、彼女はテーブルに肘をついていた。

ゆっくりとした時間の流れる中、からになったミルクレープの皿と、ハンバーグドリアの皿がマスターに回収されてゆく。彼ははたして、どこまで私たちの話を聞いているのだろうか。

聞かれてまずいことだとも思わないし、彼女もきっとそうだろう。私はマスターへの配慮を、すぐに忘れることにする。

「君はそういうひとだね」

「分かったように言うけれど、だいたい分かってるのも知ってるから怒らないわ。結局ね、言いたいことって、」

「でもそれって、結局君の自己満足でしかないよ」

「そういうこと」

ウインクをする。幼い少女のようなふるまいを、長い睫毛に豊かでやわらかい茶髪、厚くてかたちの整った、赤の似合うくちびるで。

彼女はふしぎなひとだった。

「だから。貴方の恋の話をね、ここで聞けるのを待ってるわ」

そう言って、彼女は席を立つ。

リップの赤の残ったカップを置いて。はちみつのような、甘い香りを残して。

それから、私からの義理立て用に、2人分の伝票をそのままにして。

「それじゃあ、1ヶ月後に」

「デート、楽しんでらっしゃい」

私は彼女に笑いかけ、スマートフォンを開いてSNSにログインした。

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