第4話「ずっとそこにいてくれれば」
ケーキセットに、ケーキ以外の、例えばクッキーとかの焼き菓子もつけられることができると知ったのは、つい先日のことだった。
その話をすると、彼は笑う。
曰く、俺は随分前から知ってたよ。フレンチトーストとか、バウムクーヘンもある。
彼はここのマスターと懇意で、カウンター席に招かれ言葉を交わすことも多いような間柄だ。
「知らない人がいたら緊張してしまうから」ということでカウンター席を空けていることの多いマスターだから、初めて彼がそこに座っているのを見たときは驚いた。
その後すぐに私はここへ来られなくなり、彼がいつからこの店に、とか、そういうことを聞く機会を逃してしまったのだけれど。
カウンター席のいちばん奥に2人横並び、先日まではコスモスがいた一輪挿しに、椿の枝が挿してあるのを眺める。もうすっかり冬になったんだな、と、思ったときには口に出ていたらしい。
「そうだよ。準備してる?」
「なんの」
彼は、ひどい奴だなと笑う。
自分で言うのもなんだが、私はひどい奴だ。約束はすぐに忘れる。人の顔だって覚えていられないし、予定もリマインダーをセットしておかないとまず覚えてなんていられない。彼は知っていて、それを許して、理解していながら、笑い話にしてくれる。
「いいよ。思い出したらまたこの席に来て」
たばこをくわえて、火をつける。慣れた仕草に、彼が喫煙者だったことを思い出した。
「ここ、中に煙はいるんじゃない」
仮にもカウンターなんだから、遠慮すれば。
彼はまた笑った。
「気は遣えるんだよね、不思議なことに」
前からすっと出されたフレンチトーストが、甘く香ばしい匂いの湯気を立てている。
「俺は吸わないから」
フレンチトーストを嗅がせろ、と、たばこの煙を手で追いやる。彼は相変わらずにこにこと、シトロンクッキーとたばことコーヒーを交互にやっていた。
喫茶店にいるというのに、彼の振る舞いはなんだか居酒屋にいるみたいだ。
マスターが笑って、相変わらず仲がよろしくていいですね、と言う。ここでふたりしてコーヒーを飲むのは久しぶりだから、余計にそう見えるのだろう。
「こいつが糖尿になるまでは、来ますよ」
フレンチトーストのセットに、プラス50円でコーヒーフロートをつけた私の目の前をわざとらしく指さして、彼は肩をすくめた。
ーーー
閉店時間も過ぎ、彼が帰ったあと。
フレンチトーストの器にはちみつの一滴もなく、コーヒーフロートの中にも氷ひとつ残っていないのを眺めていたら、無性に切なくなった。
「ずっとそこにいてくれれば」
「結末は違ったのかもしれないのに、ですか」
僕の愚痴を何度も聞かされたマスターが、もう覚えてしまいました、なんて笑いながら後を引き継ぐ。
覚えてもいられない相手との結婚なんて、しなければよいのだ。ずっと、隣にいてくれると思っていた。また手酷くフラれて、僕の隣に戻ってきてくれやしないだろうか。
「結末はまだ当分来ませんからねえ。のんびりやりましょうよ。とっておきの豆を挽いてきます」
マスターと、ひとつっきりの暖色のランプに、もう少しだけ甘えることにした。
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