第2話「中に何が入ってるか当ててください」
学生時代、友人となけなしの財布の中身をより分けて、「美味いコーヒー」に背伸びをしたことを思い出しながら、私は細い階段を上った。
その友人が新作をこの場所に飾ることになった、というので、見に来たのだ。
高校、大学と同級生だった彼は、まだ私と同じ時間を過ごしたあの大学で、何度めかの最高学年をやっている。
院とかのそういうややこしい制度は面倒に感じて避けてきたために分からないが、彼の場合はそうではなく、毎年卒制を白紙で出し続けているのだというから余計に分からない。
「すみません、ひとり」
「あちらのお席へ」
壮年のマスターは、白髪を短く切り揃えていて清潔感がある。彼の伸び放題の髪と、最早どれが汚れでどれが地の色か、というありさまの作業着が懐かしい。
がらがらのカウンターではなく、示されたテーブル席へ向かう。ソファ側に座ると、右手に本棚がある。左手には窓と、窓際にサンドイッチの画。もしかすると、マスターは私の人相などを聞いていたのかもしれない、と、思うなどした。
「シグリを、ホットで」
すらりとしたお冷のグラスとおしぼりを置いて、マスターは丁寧な礼をして去った。無言の配慮と、干渉のなさがありがたい。
未だに髪を伸び放題にして、あの作業着を着たままで、木を彫り、インクをつけ、額を汗だくにして、あの嬉しそうな顔で、サンドイッチを描いた彼を想う。
私だって、彼の隣に居たかった。
「お待たせしました」
サンドイッチを眺める私の視界を遮らず、声と、コーヒーの香り、それからソーサーとカップが置かれる音だけで、マスターはまた去っていく。
彼とマスターは知り合いだったのかとか、なぜあのサンドイッチがここにあるのか、とか、そういう話を聞こうと思って来た節もあったが、不思議とどうでもよくなっていた。
たぶん、これは嫉妬心だ。
彼の才能と信仰を羨む。
私の知らない彼を知っているかもしれないマスターを、羨む。
それから、私は本棚の中にあった4年前の雑誌を読んで過ごした。なんの変哲もない、下町の情報誌だった。
雑誌のつやのある紙面が暖色のひかりを反射してようやく、私は日が暮れていたことに気づく。コーヒーはほんの少しだけ底に残って、冷めている。
シグリ、という耳慣れない響きの豆で淹れたコーヒーは美味かった。彼と背伸びをしたコーヒーと同じ値段だというのが、すこしだけ気に食わない。
我がことながら面倒くさい思考にため息で蓋をして、見納めにとサンドイッチに目をやって、気づいた。
何が入っているのだか、わからないようになっている。
描けないはずはない。色でも、形でも、いくつもの版を使って何度も色を置いて刷っていた彼なら、表現の仕方はいくらでもあったはずだった。
それだけ、マスターに聞いて帰ろう。
冷めた一口を飲み干して、席を立つ。するりとレジに収まったマスターに「ごちそうさまです」と言って、さあ、と覚悟を決めた時、マスターがいたずらっぽく、目尻にしわを寄せて笑った。
「あのサンドイッチ、中に何が入ってるか当ててください」
私はすっかり見透かされたような気持ちで、すり減った革靴と踵を鳴らす。ハムチーズだったらいいのに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます