短編まとめ

魚倉 温

第1話「じゃあ、また明日(あした)」

橙色のあかりがひとつっきり、ぽつんとぶら下がった喫茶店の一番奥。4人がけのテーブル席が私たちのリザーブになってから、どのくらいが経ったか分からない。

私は今日も、はす向かいに腰掛けた顔色の悪い男に会いに来た。

「忘れ物ですよ」

彼はにんまりと笑う。いつものことだが、彼はあまり話さない。私の方が話して、というか、彼の素性やら趣味やらをやんやと質問してはかわされた。

不思議な会合だと思う。

彼も毎度毎度質問ばかりで辟易しているのかと思ったが、それでもここに居てくれる。

「今日は、質問でないお話をしようと思って」

少しは驚いた顔をしないかと思ったが、彼の表情はにんまりのままだ。口角ひとつ、眉ひとつ動かさないのには不気味さを感じるものだが、慣れてくるとむしろ見落としているだけではないかと思いはじめた。

彼の顔を穴があくほど見つめ、さすがに不躾かと一旦コーヒーへ視線を落とす。

「昨日、うちの金魚が腹見せて浮いてたんです」

ちらりとうかがった彼の表情は、いつもより少しだけ眉尻が下がった、悲しそうなものだった。

「餌をやろうとした時に気がついて。名前を呼ぶと、餌の時間だと思って浮いてきていた子が、起きた瞬間から浮いてて」

彼は、笑った。

「お腹を空かせたのかと思って、餌を持っていったんですけど、中見た時に、あぁ、死んだんだなって。病院とか、そういうのが全く思い浮かばなくて。死んでたんです」

コーヒーの湯気が落ち着いて、見えなくなってゆく。そういうふうに、だんだんと死んでいったのならまた、違った気持ちだったのかもしれない。

そんなことを思いながら、深煎りのブラックコーヒーを飲む。

「モノなんですよね。死んだら」

そんなもんか。そう思った時、水槽の静かな水面に映った自分がなにか得体の知れない、人間以外の、人間によく似せた何かに見えた。

小さなカップの真っ黒な水面に映る自分は、たしかに人間の顔をしている。

「重さは、計ったかい」

久しぶりに聞いた彼の声は、穏やかでひび割れていた。ざらつくその音は古びたラジオのノイズのように、私の心を落ち着かせた。

顔を上げた私の視界に、マスターが映る。

「サービスです」

丁寧に腰から一礼をして去ってゆくマスターの背にお礼を言うと、彼がまた口を開くのが見えた。

「ここのジンジャークッキーは、きっかり20gだそうだ。残りの1gは、きっと君の中に残っている」


あの小さな金魚の重さを計ったことなんて、生前からなかった。比べようもなく、あの身体に21gが詰まっていたのかも分からない。

気休めにしか思えなかったが、その気休めも、ありがたい。

私よりもうんと人間みのなかったはずの彼の表情と声色は、私よりもうんと人間じみている。

「じゃあ、また明日(あした)」

するりと衣擦れの音を残して、席を立つ彼。

ついさっきまで座っていたその座面には、金魚の描かれたとんぼ玉がひとつ、転がっていた。

また明日。

私は彼に、忘れ物を渡しにここへ来る。

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