第8話 自由な君に憧れて③

 彼女の性格通り、明るく弾んだ歌声が壁に当たって反響する。曲調はポップなもので、音程もさほど高くなかった。三衣はリズムに合わせて手拍子をしていたが、葵はそんな余裕もなく必死にリズムを覚えていた。もうすぐ、一番が終わる――…


「さっ、葵!行けそー?」

「う、うんっ!」

「じゃー、行くよ?わかんなくなったら抜けていいからね!」


 未果の合図に合わせて、曲を歌い始める。初めは少しためらっていた葵だったが、歌ううちに楽しくなってきた。小さかった声が大きくなり、無意識に体がリズムを取っていく。三衣と未果が目を見張ったが、夢中な葵は気付かない。

 サビに入ると、さらに葵は笑顔を浮かべていた。もう周りの目など気にしない。心の命じるままに、思いきり叫ぶように歌う。


 曲が終わった瞬間に拍手をされて、葵は戸惑った。三衣は勢い余って抱きついてくる。


「すごいね、葵ー!」

「うんうん!すごく上手かった!感動して泣きそうになったよ?」

「もう…ふたりとも、大げさだなあ」

「いや、あの誉め言葉でも足りないぐらい上手いから。本当だよ」

「そう、なの?ありがとう」

「うん!もっと聞きたいから、今日は帰さないぞー?」


 えー、と言いつつも、楽しそうに笑う葵。彼女のスマホが着信を知らせていたが、部屋内の音にかき消されて届かない。発信者名、そこにはこう書かれていた。



『母さん』――…



♢  ♢  ♢  


「あー、楽しかったぁ…」


 『変身』を解きながら、葵はそう呟いた。体は心地よい疲労感に包まれており、心なしか表情も明るかった。

 ――と、スマホのメッセージにやっと気付いた。誰だろう、と首を傾げながら開くと、相手は『母』だった。しかも、二時間も前に。


(嘘でしょ?)


 慌てて内容を確認すると、そこには『あと一時間ぐらいで帰れそう』との文字――…

 もう、『母』が帰ってから一時間は経っている。これは、まずい。きっと――いつものように、怒られてしまう。怖い、と感じ、体が勝手に震え始める。

 それでも帰らないわけにはいかなくて、葵はやってきた電車に乗り込んだ。


 家への最寄り駅に着くと、すぐに飛び降り、駆け出す。全速力で走るけれど、それでも遅い。もっと速く、速くしないと。焦りばかりが募って、足元の石に躓いた。


(いっ…たぁ……)


 転びはしなかったものの、そのときに足首を捻ったらしく、ズキズキと断続的な痛みがする。こうなってしまえば走るわけにもいかないため、片足を引きずりながらできるだけの早足で歩く。

 家に着いたときには、空は完全に夜の色だった。満月が、高いところで輝いている。玄関の鍵は開いていた。


「ただ、いま…」

「葵…?!おかえりなさい」


 恐る恐る声をかけると、『母』の心底安心したといったような声が返ってきた。葵がリビングに入ると、まず飾り付けられた壁、次にテーブルの上に並ぶご馳走の数々が目に入った。メインは――葵が頼んだ、唐揚げ。


「どこに行ってたの…?!心配したのよ。何してたか話して…って、それ」


 驚いている葵に構わず、早口で次々に言葉を継いでいく『母』。その視線が葵の足首にとまったかと思うと、廊下に飛び出していく。やがて、救急箱を片手に息を切らせながら戻ってくる。

 そして、手際よく湿布とその上から包帯を巻きつけ始めた。


(そういえば、母さん中高両方とも運動部だったって…)


 ひとり静かに納得していると、『母』が包帯を巻く手を止めないまま問いかけてきた。その声には心配だけがあり、いつもの冷淡さはどこにも見当たらなかった。


「腫れてるじゃない。どうしたの?」

「これは…外で、躓いたんです」

「なんで、あんなに運動神経がいいのに…」

「走っていたら、石に足が引っかかってしまって」

「走る?」


 視線で尋ねられ、葵はどうにか途切れ途切れの言葉を紡ぎ出す。驚きがまだ治まらなくて、声はかなり掠れていた。『母』が心配そうな顔をして、さらに混乱が深まる。


「遅くなってしまって…母さんのメッセージにも、気付かなかったから。――怒られると思って」

「怒るなんて…それより、遅くなったって、どこに行っていたの?」

「……」


 『カラオケに、友達と行ってきました』…そう言えばいいだけなのに、声が出ない。“帰りに寄り道したと言えば、『母』に怒られる”という恐怖、思い込みが、葵のことを縛って。

 黙っているうちに、『母』の視線がどんどん厳しいものになっていく。表情も、少しずついつもの雰囲気を取り戻しつつあった。


「…言えません」


 葵はなんとか、そう声を絞り出した。


「…そう」


 今や、『母』はすっかりあの冷たい雰囲気に戻っていた。心配そうだった顔は無表情に塗りつぶされ、冷ややかな目で葵を見る。

 それを見た瞬間、葵は自分が判断を誤ったことを悟った。


(あ…)


 『母』がテーブルの上に並べられた食事を分けていく。大きな食器にバランスよく取り分け、それが終われば壁の飾りを取り払う。そして、食器を葵の方に置き、彼女は救急箱ともうひとつの食器を持って自室に消えてしまった。すっかり殺風景になってしまったリビングには、呆然とした葵だけが残される。


「…とりあえず、着替えよう…」


 葵はぽつりと呟くと、『母』がいないことを確認してから二階に上がっていった。驚きと悲しみで、表情の抜け落ちた顔で――…


◇  ◇  ◇  


「……」

「……」


 それからというもの、『母』と葵は必要最低限の会話しかしなくなった。いつも言っていた『おはよう』も『いってきます』も言わなくなり、ふたりの間の溝は確かに深まっていった。

 葵は学校では普通に元気だ。ただ、『母』とだけ冷戦状態が続いている。時々、自室のぬいぐるみに苛立ちをぶつけることもあった。




「香音、おはよ。みぃは?」

「おはよう、葵。みぃなら、まだ来てないよ。昨日CDが届いたって大はしゃぎしてたから、多分時間を忘れて聞いてると思う」

「あー…」


 「そっか」と呟く葵は、どこかに元気を置き忘れてきたかのようだ。浮かない顔をして、ぼんやりすることが多くなっている。香音はそれに気付いていながらも、事情があるのでは、話してくれるまでは、と何も言わなかった。

 そのため、葵はひとりでずっと、『母』とのことを抱え込んでいた。


(母さんは…もしかしたら、歩み寄ろうとしてくれてたのかな。それを、私が無碍にした…)


 ぐっと、胸元を強く強く掴む。これが、葵の最近の癖になっていた。そのため、ブレザーはもうくしゃくしゃだ。いつもなら『母』がアイロンを勝手にかけておいてくれるのだが、それがないのでこうなっていた。

 そのことで葵はさらに自分が『母』に頼りきりになっていたことを悟り、罪悪感と虚無を味わうのだった。


(こうなるまで、知らなかった。私はひとりでできるって思い込んで、反抗して…)


 確かに、『母』が悪いとも思う。気遣ってくれているにしても、葵のことを縛りすぎだと。

 けれど――『母』がいなくなれば、何もしなくなれば、葵は何もできない。ずっと、"守られてきた"のだから。葵のことを誰よりも理解し、心配した『母』に。


(私…)


「――最低だ…」


 ぽつりと漏らしたひとりごとが微かに周りの空気を揺らしたが、それは誰の耳にも届くことはなかった。


◇  ◇  ◇  


♪~


「……あ」


 街中で不意に聞こえた曲に、葵は駅へ向かう足を止めた。

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