第6話 自由な君に憧れて①

 ――次の日の朝。葵は、いつものように目を覚ました。でも、もう「今日の始まりだ」なんて考えない。つまらない今日がまた始まるなんて、絶対に。

 階下から『母』のずっと変わらない呼び声が聞こえて少し不機嫌になるも、首を振って気持ちを落ち着ける。ふわりと味噌汁のいい匂いが漂ってきて、揺蕩う意識をハッキリと覚醒させていく。


 慌てて髪を整え、最後に全身鏡で服装をチェック。完璧なことがわかると、いつもより格段に軽い足取りで階段を下りて行った。


「おはようございます」

「…おはよう。何だか今日は…いつもより、明るいわね」

「え…っ、気のせいじゃ、ないですか?」

「そう」


 いぶかしむような視線から逃れるように、葵はふいっと顔を背けた。並んでいる食事がまたしても大好物なことで、逃げ出すのは堪えて席に着く。『母』が、満足げに頷く気配がした。


(我慢だよ、葵…。今日は、部活がある日だもん)


 あの見学に行った日から、葵は軽音楽部に見学、または体験入部と言った形で部活に参加していた。ただ、アンプなどは部の備品があるらしいのだが、楽器だけは自分で購入しなければいけない。そのため、葵は楽器が必要ないボーカルのところに入れてもらっている。

 教えてもらった活動日は月曜日~木曜日。体験入部だから全部にはこなくてもいい、都合のつく日だけで、と言われていたが、それだけが学校での唯一の楽しみだと言っていいので、これまで一度も休んだことはない。といっても、まだ二週間だが。


「今日は、少し早く帰れそうなの。せっかくの葵の誕生日ですしね。…何か、食べたいものはある?買ってくるから、ご飯は作らなくていいわよ」

「そうなんですか。では…唐揚げが、いいです」

「わかったわ」


(どういう風の吹き回し…?)


 これまで、『母』が葵の誕生日だからと早く帰ってきたことなんてないし、何か買ってきてくれたこともない。それに、別に『母』の機嫌をよくするような言動をした覚えはない。


 結局、きっといつもの気まぐれだ、と結論付けて気にしないようにした。その後も流れるように一連のことを済ませ、葵はとんとん、と靴のかかとを整えて家を出た。「いってきます」と言うと、控えめな声でこう聞こえた気がした。


「葵。…いって、らっしゃい」


 葵は反応しない。けれど、いつもより優しくドアを閉めた。マフラーに顔をうずめると、鼻先で心地いい花の匂いが香る。

 『母』の気まぐれは、いつも、わからないことだらけだ。




「おはよう、みぃ。香音はまだ来てないの?」

「へ…、あ、うん。まだ」


 朝、笑顔でそう言うと美以子はぎこちなく答えた。目が泳いでいて、不思議に思った葵はその顔を覗き込んで首を傾げる。


「…どうかした?」

「えっと。…なんか、あおたん、いつもと違わない?明るいというか…」

「そうなの、かな?」

「自覚なしかぁ~。絶対何かあって変わったんでしょ?もしかして…彼氏?」


 驚いた顔からからかうときのニヤニヤ笑いに変化した美以子は、彼氏ができたのではということを疑っているようだ。葵がぶんぶんと音がしそうなほど勢いよく首を振ると、つまらなさそうに口をとがらせる。質問攻めに合う、その直前。


「――おはよう。どうかしたの?」


 救いの女神…もとい、香音が颯爽と現れた。


♢  ♢  ♢  


「・・・葵?みぃ?どうしてそんな風にしてるの?」

「だって、みぃが・・・」

「葵が答えてくれないからでしょー!」


 ぷくーっと頬を膨らませる美以子の前には香音。そして、その後ろに隠れるように葵がいる。そのせいで思うように質問ができず、美以子はすっかり御冠だ。

 前の美以子、挟まれた香音、隠れる葵。3人の膠着状態はしばらくの間続き、予鈴が鳴ったことで全員が違う場所に散った。


 葵がやってきた女性の担任教師の元に。香音は席につき、未だ頬を膨らませたままの美以子は仕方なさげに香音の隣にある自身の席につく。そしてふたりが話し始めたのを見届けてから、葵は教師から仮入部に必要な書類を受け取った。

 嬉しくて頬を緩めると、教師が安心したように微笑んだ。


「よかった。清水さんが、部活に入る気になってくれて」

「・・・え?」

「これまで、部活も何にもしてなかったでしょう?ちょっと心配してたの」


 だから安心したのだと教師に言われ、葵は思わず貰ったばかりの書類で顔を隠した。なんだか気恥ずかしかったからだ。くすくすという忍び笑いに見送られ、顔を隠したまま席に戻る。


「よっ、葵。それ、仮入部用のやつ?」

「あ、うん。そうで・・・そうだよ」


 癖で敬語になりそうになり、寸前でなんとかタメ口にする。一週間は経つものの、タメ口や呼び捨てにするのはまだ慣れない。

 最近、やっと未果は大丈夫になったものの、颯斗と碧は名字で呼んでしまうことが多々ある。


(がんばって、直さないと。早く馴染みたいし・・・)


 そう気合いを入れ直す葵の耳に、本鈴の音が滑り込んだ。


 一日の授業のうちの約半分――数学、英語、保健体育、理科の四時限までを済ませた昼休み。持ってきた弁当を広げた葵は、すっかり聞き慣れてしまった声が聞こえて顔を上げた。視線をドアの方に持っていくと、満面の笑顔で葵と颯斗を呼ぶ未果、その後ろに隠れてため息をついている碧の姿があった。手を止め、同じく笑顔でそちらに駆け寄る。

 軽く周りを見渡せば、颯斗もふたりのところに早足で向かっていた。不思議そうに見ている美以子と香音には片手を挙げて応えておく。あとで、ちゃんとした事情は説明しなければならないだろうが。


「――どうしたの?」

「んー?葵と一緒に、お昼食べようと思って!」


 いつものようにイタズラっぽい笑みを浮かべながら、未果は美以子と香音の方をチラッと見て、先約があったみたいだね、と告げる。

 碧の方は颯斗と話していて、難しい顔をしている。軽く耳を傾けてみると、真剣な顔で話していたのがある有名なゲームの攻略情報だったので少し思考が停止する。


 未果は手を挙げ、またね、と言って手早く去っていった。熱く語り合っていたふたりの襟元を掴み、ずるずると連れていく。葵は、ぽかんとしたままそれを見送った。


「葵、あの人たちだーれ?」

「えっとね、軽音楽部の・・・」

「ああ、ライブしてた」


 香音が納得したように頷き、美以子も少しだけ考え込んだあと、なるほどといったように大きくかぶりを振った。ほっとして、思わず笑顔になる。


「ははーん、そういうことかー」

「…?そういうこと?」

「だーかーらー、葵が変わった理由!軽音楽部でしょ?」


(す、鋭い!)


 美以子にぴたりと当てられ、葵は軽くうめいて頷いた。ニヤニヤしながら見られているのがいたたまれない。香音も静観していて、助ける気はゼロのようだった。別に隠すようなことではないのだが、なぜか知られると恥ずかしかった。

 結局、葵はずっとニヤニヤ&質問され続けたまま昼食をとった。しかも美以子は朝の仕返しとばかりにこれでもかと質問をぶつけてきたので、結構疲れたのも事実だった。


(楽しいんだけど、ね)


 全部吐かされて、苦笑いしかできない葵だった。


◇  ◇  ◇  


「葵!今日は複式呼吸やるよ!」

「は、はーい」


 葵にそう練習内容を伝えたのは、新部長の辻崎 三依みりだ。未果とは双子らしく、髪の長さ以外は全てそっくりだった。もちろん元気なところも同じなので、葵は振り回されることが多い。そのときには、副部長で姉の未果がちゃんと止めるのだが。

 三依はボーカルなので、同学年ということもあってほとんど一緒に練習していた。発声練習や早口言葉など、コーチとしてはかなりスパルタなのだが、葵は楽しいのでそれでいいと思っている。

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