第3話 つまらない日常③了

 5分も経つ頃には、葵はすっかり平静を取り戻していた。落ち着いたのを確認すると、颯斗の腕から力が抜けてするりと解かれた。赤くなっているであろう頬を抑え、葵は自分のどきどきという鼓動の音を聞いていた。もう離れたというのに、しばらくおさまりそうにない。


 ちらっと視線をあげると、颯斗も照れくさそうに口を腕で覆っていた。しーん、と耳が痛くなるほどの沈黙が長い間教室を支配する。鳥の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。


「あ…えと、ごめん。…あんな風に、パニックになっちゃって」

「大丈夫だよ。…まあ…あそこまでとは思わなかったけどな」


(き、気まずい…。今日はいつもと同じ、つまらない日じゃなかったっけ…)


 葵は男子に対しての免疫がほぼないに等しい。なので、さっきのように抱きしめられたりすることなど幼い頃に父にしてもらったぐらいだ。

 鳴りやまない鼓動と赤い顔を免疫がないせいにして、葵はそっと話を戻した。


「えっと、無理してるか、だっけ?」

「ああ、うん」

「…正直に言って、そうだよ。無理してる。みんなに合わせてる」


 俯き気味にそう言うと、颯斗はやっぱりな、というようなしたり顔で頷いた。


「やっぱそうだったのかー」

「あの、なんで、わかって…?」


 不思議そうに片眉を上げ、颯斗はあっけらかんと言い放った。


「そんなの、見てたらわかるだろ」

「へ…?!み、見てたらって…。もしかして、みぃとか香音にも…?」

「あいつらはわかんねーけど。自然体で葵と接してるし。…まぁ、俺からしたら笑顔ぎこちなさすぎるし、何か時々暗い表情してるしでわかりやすすぎ!」

「ううう、嘘でしょ…」

「ホントだって」


 葵は思わず頭を抱えたくなった。そんなにバレバレだったのなら、自分の今までの努力は何だったのか。我慢しながらも周りに合わせて、家では『母』の言いなりになって、それは何のために…。

 そんな葵の心情を察したのか、颯斗が慌てたように言い募った。


「あ、いや、それまだ本題じゃないんだけど」

「…へ?」


(これが本題じゃ…なかったの?)


 視線で先を促すと、颯斗はぱっと明るい表情になって矢継ぎ早に言葉を継いだ。


「言いたかったのは、素の…取り繕ってない葵でいられる場所を作らないかって話だよ。学校でずっと演技してたら、辛いだろ?」

「それはまぁ…そう、だけど」

「だからさ…その場所を、軽音楽部にしねぇ?って…。まぁ見てらんなかったっていうのもあるけど、言っちゃえば勧誘だよな、これ…」


 葵がぽかんとしている間に、颯斗はぶつぶつ言いながらがしがしと頭をかいた。うーんと唸り、その後彼の中で何かが完結したらしく、顔をあげて葵を見つめた。その答えを求めるような瞳に、葵はたじたじになる。


「すぐには、無理、です…」


「だよなー」


 颯斗は落ち込むでもなく、にこにこと笑っていた。その態度に、葵の方が呆然とする。ただし、とぴんと人差し指を立てられた。颯斗が、今度は真剣な表情になる。


「俺ら…っつっても中心は先輩なんだけど、文化祭で演奏すんだよ。それを見にきて、決めて欲しい」

「…でも」

「まー、入んないならそれでいいし。ただ俺は、葵に広い世界を見てほしいだけだし」

「…なんでそんなに、私のこと、気にしてくれてるの?」

「隣の席になったから?」


(これ、嘘だろうな…)


 いつもいつも『母』と顔を合わせている葵は、人の表情から気持ちを大体読みとることができる。ごまかすように笑っている颯斗のその言葉は、本音ではないのだということが一目瞭然だ。


(でも、見に行くだけなら…いいかな)


 葵は決意して顔を上げた。しっかりと颯斗を見据えて、告げる。


「…わかった。見に行く」


 その瞬間窓の外で夕日が輝き、チャイムが5時――最終下校時刻まであと一時間だということをふたりに知らせた。


♢  ♢  ♢  


(なんか、足元がふわふわする…)


 帰りの電車に揺られながら、葵はぼんやりとさっきの一時を思い返していた。

 あんな時間を過ごしたのは、初めてだった。いつもは学校は罪悪感と居心地の悪さで苦痛でしかないのに、今日は急に色づいたみたいだった。自然と笑顔がこぼれる。


 でも、ひとつ気にかかることは――


(文化祭って、まだだいぶ先だよね…?夏休みが明けてから、クラスの話し合いする予定だし…)


 文化祭を春にする高校もあるようだが、葵の通う高校は秋――11月に行われる。後輩ができて初めての文化祭なのでみんな張り切っており、話し合いがいつもより早くなったらしいが、それでも今は美以子や香音のように出かけたりしているだろう。

 7月に入ったばかりの今日に文化祭の話を持ち出すということは、もう練習を開始しているのだろう。素直にすごいと、葵は軽音楽部の部員を尊敬した。


(…本当に、すごいなぁ)


 ふいに真剣な表情の颯斗の顔が浮かんできて、顔が真っ赤になった。ぶんぶんと首を振って脳内から追い払う。朝と同じように隣にいた人にぎょっとしたような表情をされたが、葵はもう気にしていなかった。




「ただいまー」


 鍵を使ってドアを開けると、家はしんと静まり返っていた。ひんやりとした冷気が足元から這い上ってくる気がして、葵は急いで電気をともした。リビングが一気に明るくなる。

 今の葵は、朝出たときと同じ格好だ。いくら『母』が基本的にはいないとはいえ、イレギュラーな事態が起きて帰っているかもしれない。なのでいつも、葵はあの駅の女子トイレで『変身』を解いている。


 レジ袋を持っていた手を見ると、紐が食い込んで赤くなってしまっている。どさりという音をさせながら重いそれを床に下ろし、ふぅと一息ついた。


(もう6時だ・・・急がなきゃね)


 休むひまもなく、葵は慌ただしく晩ごはんを作っていく。今日は冷やし中華だから、あまり時間はかからない。

 そろそろ完成、というときに、ピコンという音が聞こえて葵はスマホを手に取った。送信者は――『母さん』。


『言い忘れていたけれど、今日は七海なつみの家に泊まります。なので、晩ごはんは葵の分だけでいいわよ』

「はぁ?」


 メッセージを読んだ瞬間いつもなら言わないような声が漏れて、葵は思わず口を押さえた。画面を睨むが、表示されたメッセージは変わらない。


(嘘でしょ、それ今連絡する?!しかも『泊まる』って・・・七海さんも大変だなぁ)


 五野ごの 七海は『母』の高校からの友人だそうで、たびたび家に遊びに来ていた。綺麗な人なのだけれど、毎回疲れたような顔をしていたので『母』に振り回されている一番の苦労人なのではないか、と葵は密かに思っている。


 仕方なくひとりでふたり分を食べることにし、葵は麺が伸びないように手早く皿に盛り付けた。冷たい椅子に座って、ひとりきりの食事をするのももう慣れたことだ。というか、日常的になってきている。

 なのに、今日はなぜ――こんなに、寂しい気持ちになっているんだろう。


 どこか火照っていた体が、冷気に当てられて芯から冷えていくような気がして、葵は身震いした。窓の外はもう、闇に染まり始めていた。

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