第1話 つまらない日常①
(…さぁ、今日のはじまりだ)
きしり、とベッドのスプリングが鳴り、葵は思いきり顔をしかめる。静かにしないと、今日もまた母に叱られてしまう。
――いや、『母』という仮面をつけた、他人にか。
部屋の隅にある三面鏡の前に座り、長い黒髪を櫛で梳いていく。ちゃんと整えないと、『母』は朝食をとることすら許してくれないのだ。勿論、高校に行くことも。
半袖シャツに腕を通し、音を立てないように気をつけながら櫛をしまう。磨き上げられた黒革の通学カバンを持ち上げ、はぁと一息ため息をついた。
行きたくはないが、『母』は時間にも厳しいのだ。すすすすす、とほとんどすり足で階下のダイニングルームに降りた。
「…おはようございます、母さん」
「おはよう、葵。…あら、その恰好は何?」
「制服です。7月から、半袖を着ていいことになっているので」
「そう」
短く言葉を交わし、素朴な木の椅子に座る。今日の朝ご飯は目玉焼きに白米、豆腐とワカメの味噌汁だ。葵は、好物に少し…ほんの少しだけ表情を緩め、「いただきます」と箸を手に取った。
会話をすることもなく、黙々とご飯を口に運び続ける。それなら別々に食べたっていいとは思うが、『母』がふたりで食べることに拘るのだ。『母』に逆らえない葵は、言葉を飲み込むしかなかった。
「ごちそうさまでした」
無機質な声で告げ、席を立つ。すると、『母』に声をかけられた。
「…葵。やっぱり半袖を着るのはやめなさい。長袖の気品あるブレザーが一番、貴女に似合っているのだから」
「分かり、ました。着替えてきます」
顔を歪めそうになるのを必死で堪え、ポーカーフェイスを貫いた。消え入りそうな声で応え、行き先を玄関から部屋に変更する。
(面倒くさい…)
内心でそう思いつつも、結局は『母』の言いなりになっている。まるで、操り人形のように――…
幼い頃は、『母』に反抗していたのだ。言いなりは嫌だ、好きにさせて、と。返ってきたのは――葵に対する罵倒と、理不尽な暴力だった。痛くて泣くと、静かにしろと暴力が襲ってくる。『母』を怒らせないためには、言いなりになる以外ない。幼いながらに葵はそう、理解してしまったのだった。
部屋に着くと、温度的にちょうどよかった半袖の制服を脱ぎ捨てる。せめてもの反抗にと服を放置しているが、これは『母』の小言を増やすだけだろう。そう分かっていても、やめることはできなかった。
これをやめたら、『葵』という人間が壊れてしまう気がして――…
「いってきます」
「いってらっしゃい。――今日は晩ごはんが作れそうにないからね。自分で作るのよ」
「・・・分かりました」
手を振りもしない『母』の姿を見たくなくて、ぐっとドアノブに力を込める。ばたん!と大きな音を立てて、ドアが閉められた。後ろから『母』の叱る声が聞こえてきたものの、葵は無視して駆け出した。
(あぁ、もう、イライラする!)
いつもの朝。つまらない日常。それに葵はもう飽き飽きしていた。どすどすと大きく足音が鳴り、横を歩いていた人がぎょっとした顔をする。
爽やかで、でも少し蒸し暑い夏の空気。それには、やはり長袖は暑い。ミーンミーンと鳴くセミの声が、体感温度をさらに上昇させている気までしてくる。
なので、駅に着くなり葵は『変身』した。
女子トイレに入って長袖のブレザーを脱ぎ捨てると、長い髪を黒いゴムで結んでポニーテールにする。ブレザーの下にこっそり半袖シャツを着てきていたので、あとは薄くメイクをすればいいだけだ。
葵はいつも、電車に乗る前に『変身』する。『母』の決めた自分ではなくなりたいからという思いもあるが、一番の理由はそうではなかった。
「おっはよー、あおたん!」
「みぃ、朝からテンション高いよー。おはよう、葵」
「あ・・・おはよ、みぃ、
教室に着くなり大きな声で
美以子と香音は、一言で表せば『オシャレ』といったようなイマドキ女子だ。特に香音は、映画のヒロインさながらの美少女である。
葵が『変身』するのは、このふたりに合わせてのことなのだ。ふたりともオシャレすぎて、元々の生真面目な格好では合わない。
(みぃも香音も、いい子なんだけどなぁ・・・)
ふたりが"いい人"なのは、初対面のときからわかっていた。きっと、いつも『母』に言われてする格好でも受け入れてくれるだろう。
それがわかっていても、葵は怖かった。ふたりの反応が、ではない。――周りの反応が、だった。
『何あれ。あんな格好じゃ、ふたりには全然釣り合ってないじゃん』
『ホントホント。ダサッ』
『いっつもつきまとってさぁ、みぃも香音も迷惑してるんじゃない?ウザいよね』
そう言われるのが、怖かった。それに、その反応のせいでふたりが離れていってしまうのも、同じぐらい怖かった。だから、葵は今日も周りに合わせる。美以子と、香音に合わせた『オシャレ』をする。
そうしなければ、ここにいる資格は与えられないから。ずっと『母』に叱られて、いいなりになっている葵は、そう思い込んでしまっていた。本当は、そんなことはないはずなのに――
(やっぱり、無理だよ・・・)
どんなに理屈で説明されたって、そうすることはできない。本当のことを打ち明けることだけは、絶対に。葵はぎゅっと心臓が縮こまるような感覚を覚え、周りのざわざわとした喧騒が遠のき――
「・・・い?葵?」
「あーおーたーんっ!帰ってこーい!!」
・・・香音と美以子の声で現実に引き戻された。葵はいつの間にか固く閉じていた瞼をばちっという音が鳴りそうな勢いで見開き、きょろきょろと回りを見回す。
隣で、美以子が爆笑していた。香音は口元を押さえているが、よく見れば肩が震えている。
「も~!笑わないでよ」
「あははははっ…ごめん、ごめんっ…ヤバい、苦しー」
「……っ」
「香音も!こっそり笑ってるでしょ?!」
「「ごめんって~」」
「こういうときだけハモらない!!」
文字通りぷんぷんと怒り、ぷいっとふたりに背を向ける。美以子が後ろで謝っている声が聞こえるものの、葵は当分許すつもりはなかった。
でも――
(でも、なんか気がほぐれたなぁ)
朝からずっと張り詰めていた何かがほぐれたように感じ、葵は微かに作ったものではない笑顔をこぼした。
隣では、からかわれていたとわかった美以子が怒っている。けれどもその顔は笑っていて、3人は顔を見合わせると、どこからともなく笑いを弾けさせた。――葵だけは、合わせたぎこちない笑顔だったが。
しばらくすると予鈴のチャイムが鳴り、美以子は慌てたようすでばたばたと、香音は優雅な動作で席に戻っていった。
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