ぼくと息子とぼくの祖父

藤光

ぼくと息子とぼくの祖父

 ぼくには五歳になる息子がいる。

 ぼくたち夫婦のあいだにできた、たった一人の子どもだ。ぼくにとっては、目に入れても痛くないと思えるほど可愛い子どもだが、一般的にいうなら、どこにでもいる幼稚園児だろう。ぼくは彼を抱き上げてはよくこう言う。


柚月ゆづきは、ええ子や」


 彼――柚月が特に良いことをしたわけでもないのに、だ。どうしてそうなのか。それにはこういうわけがあるからだが……。






 ぼくには祖父が二人いる。母方の祖父と、父方の祖父だ。二人とも既に故人であるので、正確には二人いたというべきだろうか。


 母方の祖父は、今から四十年以上前、ぼくが五歳の時に亡くなった。だから、この祖父に関する記憶はあやふやなものでしかない。


 祖父は複数の会社を経営する企業人でたいへん忙しい人だった。なので、ぼくが母に連れられて祖父の家を訪ねても、いるのはその家の家政婦ばかりで祖父が在宅していことはほとんどなかった。母の母、つまり母方の祖母は、ぼくが生まれるころには、すでに亡くなっていなかった。


 大人の事情など知りはしないし、分かりたくもなかった一人っ子であるぼくは、祖父の大きな家の中を居間から座敷へ、座敷から応接間へ、台所へと一人かけまわってて遊ぶのだが、食堂のテーブルで古株の家政婦が母をつかまえ「せっかくいらっしゃたのにお寂しいですねえ」などと声をひそめて話していたりするのを聞くと「さびしくなんかない」と腹を立てたりしたものだった。


 子どもの心は、複雑で混みいった現実を単純に理解するよう組み上がっているので、ぼくがそのことでなにか悩んだとか、困ったとかいうことはまったくなかったが、いつ来てもこの家に祖父がいないことが不思議であったのは確かだ。


 ただこの祖父について鮮明に覚えていることがひとつだけあった。それはふたりで相撲をとったこと。その日、母と祖父の家を訪ねるとめずらしく祖父がいて、「おう。夏菜子かなこ。来たのか。よしよし子どもは預かろう」とぼくの遊び相手になってくれたのだ。大柄な祖父は大きな声で笑いよく話す社交的な男で、相撲をとろうかとぼくを誘ったのである。相撲という力比べは、単純明快で男の子にとって魅力的な遊びだ。ぼくたちはすぐに大きな座敷の真ん中で組み合った。


「おお早月さつきは大きくなったなあ」


 祖父はすこぶるご機嫌で、ぼくの押し相撲を受け止めてくれる。


「おお、強い強い」


 もちろん祖父の大きな体はびくともしないし、子ども相手であっても勝負事にわざと負けてくれるような人でもなかったのだろう、ぼくはころころと投げ飛ばされたのだが、そのたびに突っかかってゆくと祖父は「ええ子や。早月はええ子や」といって一層大きな声で笑い、ぼくを投げ、転ばし続けた。


 遮二無二突っかかっていただけのぼくは、相撲に勝てたわけではないのに「いい子」だと言われることが、悔しかったり恥ずかしかったりしたが、そんなこととは知らない祖父は終始にこにこと笑っていた。


 大人というものは無神経なものだとぼくは憤然としたが、今になって思えば、まだ小学校にも上がらない幼子を相手にどう遊んであげたらいいものか祖父も困ったのではないだろうかと思う。なにしろ一代でその地位を築いた祖父は、普段、大勢の従業員に命令し、居並ぶ商売敵を相手に陰に陽にと戦いを繰り広げていたのだ。五歳の子供にどう接していいかわからなくなっていたとしても無理はない。


 それでもとにかく祖父はぼくと遊んでくれた。そしてこれが母方の祖父とぼくとの唯一と言っていい思い出なのである。この祖父はその年の暮れ、急な病で亡くなり、後には経営していたいくつかの会社と、家族はだれも知らされていなかった莫大な額の借金が残された。結局、会社をはじめ、祖父の持っていた家や財産はすべて借金の返済のため、人手にわたってしまったそうである。


 もうひとり。父方の祖父とぼくは同じ家に住んでいた。親子三世代同居というやつだ。母方の祖父は、――結局は失ってしまったとはいえ、人もうらやむほどの財産と社会的地位を手に入れた人だった。それと比べると父方の祖父は、何も持っていないといってもよいくらい、その身を飾るもののない人生を送った男といえるだろう。


 祖父は百姓だった。我が家も「百姓」であり、さして広くもない田んぼに米を作り、猫の額ほどの畑に野菜を育てていた。ぼくの父は高校を卒業するとこの家業を継ぐのではなく、その頃、町に出来た製鉄所に勤めはじめた。農業だけで食べていける時代ではなくなっていたのである。それはぼくたちが住む集落のどの家でも同じことだった。我が家のような零細農家――「百姓」は次々と農業をやめはじめていた。だが、祖父はその身体が動かなくなるまで田畑に出、はたらき続けた。毎日毎日、しわだらけの手に鎌や鍬を持ち、ほお被りをして土ぼこりや泥にまみれていた。小・中学生の頃のぼくは、こんな祖父のことをまるでそうすることしか知らぬ愚か者のようだと感じて恥ずかしく思っていたことがある。そして今はそうしたことをとても恥ずかしく思っている。


 祖父はいつも畑にいた。小学校からぼくが帰る頃には、祖母とふたり、翌日に出荷する葉野菜を畑から取り込んでいることが多かった。そして作業場に運び込んで大きさを揃えて束ね、洗ったものから順にリヤカーに積み込む。翌朝、まだ日の明けきらないうちに、これを自転車の荷台に繋ぎ、街中の市場まで引いてゆくのだ。なので、幼い頃のぼくは朝に祖父の顔を見たことがなかった。いつもはたらいていて遊ぶということがなかった。無口で気難しい顔を崩さなかった。


 ぼくはこの祖父に可愛がられた。普段、ほとんど言葉を交わすことはなかったが、見よう見まねで野菜の出荷を手伝ったりする、と「早月はええ子や」とご機嫌だった。


 ただ、子供というものはいい子であることもあれば、そうでないこともある。いたずら盛りの小学生であるぼくが藁塚の藁を抜くのが楽しくなって、すっかり抜いてしまい、塚をばらばらにしてしまったときも、友達とふたり畑を走り回り、植えられていた出荷前の大根を台無しにした時も、祖母は「せっかく育てた大根をめちゃくちゃにしてからに。かなわん子や」と腹を立てていたが、祖父は「そないに怒らんでええ」とむっつり言ってぼくを叱ることはなかった。そしてほんの少しいいことをすると「ええ子や、ええ子や」とぼくのことを褒めてくれるのである。ぼくのしたことは良くないことだったので、祖母が起こるのは当たり前、祖父はずいぶんと変わった人だなあとその頃はそう思っていた。






 柚月は決していい子ではない。「手を洗いなさい」「トイレの明かりは消しなさい」「左手はお茶碗を持ちなさい」妻は事細かく柚月にいって聞かせているが、なかなかいいつけを守れない。「ごはんだからテレビはやめてね」と言ってもアニメを見続けるし、「もう遅いから早く寝よう」と言っても携帯ゲーム機を手離そうとしない。やるべきことに優先して、自分のやりたいことをやってしまうので親が叱ると泣き出してしまう。柚月の悪いところばかりが気になって仕方ない妻は「この子をどう育てたらいいのか、分からない」と頭を抱えている。色々と悩んでしまい、柚月に厳しい言葉をかけてしまうこともあるようだ。


「そんなに怒るな」


 ぼくには、柚月と子供だった頃のぼくが重なって思えて仕方がない。ぼくもいい子ではなかった。むしろいまの柚月とそっくりだったといっていいかもしれない。母もぼくの育て方に悩んだのだろう。でも、幼いぼくには「ええ子や」と声をかけてくれる人がいた。


「早月はええ子や」


 子供は、複雑で混みいった現実も単純に理解してしまうものだ。短い言葉の中にどれほどの想いが込められているものか知りようもないが、その本質はシンプルに理解できていたと思う。


 ――君は、君のままでいい。

 ――そうした君が素晴らしい。


 だからぼくは柚月にもこう伝えてくれる人が必要だと思う。柚月はいい子だと。お前はお前のままでいいんだよと。そしてそれはきっとぼくであるのだろう。ぼくにとって祖父がそうであったように。


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ぼくと息子とぼくの祖父 藤光 @gigan_280614

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