第二部 プロローグ
木漏れ日の中で
果ての見えない、広く静かな森。
どこからか川のせせらぎと、鳥たちのさえずる声だけが流れている平穏な世界。
時折降り注ぐ木漏れ日に、サラ=メルティアは見上げて目を細める。
白のワンピースに焦げ茶色のベルトを巻き、黒のローブを羽織る。その隙間からは、鮮やかな銀色の髪と透き通った赤の瞳が見え隠れする。
もう何日もこの森の中を彷徨っており、終わりのない迷宮に閉じ込められたような感覚さえ抱く。
しかしサラは絶望することもなく、また歩き疲れているわけでもなく、至って明るい顔色で歩いている。
麻色の大きなカバンを背負ってもなお汗ばむことのない、心地よい気候だった。
「迷子かな?」
『だろうな』
サラの呟きに答えたのはドラゴン、現在は彼女の首にかかる水晶である使い魔のリュー。
ワケあってサラと契約をした彼は、彼女と記憶や感情を共有している。故に、今の彼女が迷子になっていることに、不安や絶望を抱いていないことがわかる。
「こんな場所に村があったら、私は是非そこに住みたい」
『それでは森ではなかろう』
「そうだね」
リューは思う。今日のサラは妙に機嫌がよかった。特に何かがあったわけではない。金になるような貴重な薬草があったわけではない。
なにもないのに機嫌がいい。そんなことはあり得ないと、リューは問うた。
『なにかあったのか?』
「……こうして森にいると、生きているんだなって思える。決して人と関わることが嫌になったわけじゃないよ? それでも、人間と関わるのは少しばかり、煩わしい時がある」
それはサラが人見知りな部分があることも要因の一つといえる。しかしそれ以上に、サラ=メルティアという少女にはたった一つの壁がある。
冷たく、分厚く、とても高い壁。この時代に魔法使いとして生まれた運命。
人知れず、きっと永遠に理解されることのない感覚は、サラにしかないものだろう。
「でも、私にはやらなきゃいけないことがある。それに、本当に嫌になったら止めると思うよ」
きっかけはとても些細なものだった。しかし確実に、サラは前を向いている。こんな広い森で迷子という事態にも、多少は楽しむ余裕がある。
それを知っているリューは、敢えて多くは聞かない。
ただ、彼女の赴くままについていく。本当にそれだけしかできない。
「ん、あれは……」
サラの足が止まり、視線の先に映ったのは派手な色をした花。
緑や茶色ばかりだった景色に映り込んだ紫の花びらは、異様な存在感があった。
花の前にしゃがんで、茎からじっくりと観察する。
「これは、アルカナ草の変異種か。珍しい」
『高く売れるのか?』
「たぶんね。でも、これがあるということは――」
サラがそう言いかけたところで嫌な気配を感じ取り、口を噤んだ。
悪意を振り撒くように音を立てて歩く音は大きい。近づいてきているのが、地面の揺れから察知できる。
絞り切れなかった気配は背後からやってきた。
咄嗟に振り返ると、真っ先に目に映ったのは音もなく振りかざされた、巨大な腕。
木が折れて倒れてきたのではと錯覚した。しかし、その不気味な赤黒いそれは、とても見間違えることはできない。
「マナ・シィスル!」
この世のものではない不可思議な言葉を唱えると、サラの前に金色の魔法陣が現れ、振り下ろされた腕を間一髪防いだ。
すぐに後退し、同時に魔法陣にひびが入り、光を放って砕け散る。少しでも遅れていたらと考えると、サラの額に嫌な汗が滲む。
「物理攻撃だと、まず破られないはずなんだけど……」
『どうする。燃やすか?』
「森でそれはまずいよ」
血気盛んなリューを諭し、サラは真っ直ぐに目の前の魔獣を見据える。腕だけでもサラより大きく、赤黒い体毛からに覆われている。おそらく原型はクマだろうが、それにしても異様な進化を遂げている。
炎では森に被害を出してしまう。ならばそれ以外で攻撃をするしかない。
「ワーツ・ラウ・ザッハ」
サラの周囲に集まったのは、ふよふよと宙に浮かぶ水の塊。それらは細く薄く、三日月のような形に変化する。
水の斬撃を作って、戦闘不能にしようという算段だ。
「アルカルド」
目にも止まらぬ速さで魔獣へと放たれ、四肢を切り裂かんと襲い掛かった。しかし、確かに当たったはずの身体は、血を流す程度の損傷に留まってしまう。
魔法の手応えがよかった故に、サラは顔を引きつらせ、動揺の色を露わにする。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ」
『どうするんだ』
「決まってるよ。逃げるっ」
一目散にサラはその場から走り出す。魔獣もすぐさま彼女を追ってきた。
するすると木の間を駆け抜けるサラに対して、魔獣は木々をなぎ倒して猛追を続ける。追い付かれれば最後、原型が残らないほどに叩き潰されて死ぬだけだ。
「アルカナ草の変異種は、自然に生えることは滅多にない。もし生えているとしたら、魔獣から漏れ出たマナが影響している可能性が高い」
魔獣の出現、及び生物のマナの変異については未だ解明されていない。
さまざまな仮説ばかり立つが、決定的な証明には至っていないのが現状だ。
故に、戦争が終わってもなお魔獣の脅威に晒されている地域も少なくない。
「これくらい大規模な森になると、小型の魔獣がうろうろしていてもおかしくない。出くわさなかったのは、この大型魔獣が食い散らかしてたからみたいだね」
しかし、この魔獣を放っておくのも危険だ。まず一般人では相手にならない、並みの兵士でも太刀打ちできないだろう。
やらなければならない。サラにはその正義感があった。
「少しだけ、時間が稼げればいいんだけど」
『燃やさなければいいのだろう』
リューにはなにか策があるようだった。なるべく目立たずに、かつ被害が出ないのであればと、サラは頷いてみせる。
首にかかった水晶が淡く光ったかと思えば、そこからおぞましいほどの殺気が放たれる。
幻想種たるドラゴンの気はすさまじいもので、主であるサラでさえ身震いする。魔獣もそれを感じたとったのか、動きがやや鈍る。
『失せろ!』
魔力のこもったリューの咆哮は、突風となってサラを中心に巻き起こる。それでようやく、魔獣の動きが止まる。
それと同時に、サラは詠唱を始めていた。
「グランツ・ディターノ」
瞬間、魔獣の足下から地面が揺れ始める。ぴきぴきと物騒な音を立てていると、次の瞬間魔獣はふっと地面に落ちた。
どこからともなく現れた大きな落とし穴にはまるそれを見て、サラは次の魔法を使う。
「グランツ・ネム・クルブス」
魔獣の頭上が影で覆われる。そこには、砂の粒が集まって一枚の大きな岩となり、サラが手を振りかざすと同時に魔獣の上へと落ちた。やがて同じ大きさの岩がもう一枚、また一枚と積み重なり、見事に魔獣を無力化した。
満足げに微笑するサラだが、大きな溜め息とともに地面へ座り込んでしまう。
「危なかった」
『いざとなれば燃やせばいい』
「それは本当に最終手段だよ。まったく」
大雑把な答えばかりするリューにまた嘆息し、ようやく激しく走っていた心臓が静かに脈打ち始めた。
息を整えて立ち上がると、積み重ねた岩の前を撫でる。
目を瞑り、両手をぴたりと合わせて俯く。どこかで教わった、死者を弔う作法らしい。
「魔獣も、元は普通の動物だったはず。なりたくて魔獣になったわけじゃない。だからせめて、安らかに眠れるように」
たとえ人間ではないとしても、生きているものを殺めることにサラは慣れていない。否、慣れないようにしている。
それが何とも思わなくなってしまったとき、サラは自身に失望するだろう。
どんなものにでも優しさを忘れてはならない。先入観に囚われずに自ら歩み寄ることこそが理解に繋がる。
サラの大切な師匠、アリアから教わった言葉を、彼女は胸に刻んでいる。今でもふと思い出して寂しい気持ちにもなる。
それでも、サラは歩むのを止めない。
「行こうか、リュー」
まだ見たことのない世界を知るために。過去を知るために。そして人間と魔法使いが分かり合うために――サラは旅を続ける。
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