今はまだ貴女に会えない

「まず、ロッコは何を書きたいんだい?」


 今からすべての文字を教えるだけの時間はない。

 だから必要な文字をどう書くかを見せることで、きちんと彼の字で綴れるという算段だ。


「おねえさんのパパとママは、仲良し?」

「.......どうだろう。あんまり覚えてないかな」


 事実を伝えたとして、まだ幼い子どもにはわからないだろうと、サラは誤魔化した。


「僕のパパとママはね、すっごく優しいけど、パパは怒ると怖いし、ママのゲンコツはすっごく痛い」

「仲良しなんだね」


 そう言うと、ぎこちなかったロッコの笑顔はだんだんと自然な笑顔になっていく。


「パパとママはね、僕が大きくなったら旅をしてほしいんだって。おねえさんはどうやって旅に出たの?」


 悪意などないであろう質問に、サラはほんの少し怯んだ。

 旅人の間では、旅に出た理由を聞くことはいけないという暗黙の了解があった。

 理由はそれぞれある。まだ見ぬ土地を求める者、故郷を追われた者、故郷がなくなった者……大多数はあまり明るい理由ではない。


「……私には、親代わりになってくれた師匠がいるんだ。優しくてとても強い人だった。その人に旅をしてほしいと言われた。最初はわからないことだらけで苦しかったけれど、自分で旅の楽しみを見つけた。それからはとても楽しいよ」


 ロッコは眉間にしわを寄せ、首を左右に傾ける。

 つい感傷的な話をしてしまい、彼を困惑させてしまった。サラは微笑して、彼の頭を撫でる。


「私も、なんて書いていいかわからないんだ。どうしようか?」

「ありがとうって、いえばいいんじゃないかな」


 単純で、些細な一言。それでもサラの頭にはなかった言葉で、つい呆気に取られてしまう。

 時間が過ぎる毎に、感謝の気持ちを伝えることは難しくなっていく。しかし、いつでも言葉は真っ直ぐなままでいい。

 そんな当たり前のことを、小さな少年に教わった。


「そうだね。じゃあ、いつもの感謝を書こうか」

「うん!」


 ロッコに文字を教えながら、自分の字とサラの字を必死に見比べながら、彼はなんとか自分の手紙を完成させた。

 気が付けば外は日が傾き始めていた。


「あした、パパとママに渡すね!」

 

 ロッコは無邪気な笑みを浮かべ、サラの部屋を出て行った。

 彼を見送ったサラの瞳は、昔の自分を映していた。まだ幼く、アリアの家に来たばかりの自分を。


 伝えたいことは、端から決まっていたのかもしれない。


「うん。なんとなく、わかってきた気がする」


 机の蝋燭に火をつけて、ペンを手に持つ。

 それからの動きは早く、溢れ出す言葉をひたすらに綴っていった。


 がむしゃらに、ひたむきに、感情と向き合う。その時間はサラをより大きく、強く前へと歩き出せる。そんな力を与えるだろう。


 とても悲しく、とても悔しい。普通の人間ならば、感情は涙となって溢れるだろう。しかしサラには、もうそれができない。

 どんなに辛く苦しい時間が訪れようとサラは泣かない。それはとても強く見えて、しかしとても残酷だ。


 それでも、今のサラは、自分を否定しようとは思わない。不幸だとも思わない。

 それらすべては、サラ=メルティアという人間であり、魔法使いの在る姿なのだから。


「……できた」


 顔についた黒いインクを拭い、書き終わった紙を眺める。

 文字列は歪んで、字も上手いとは到底いえない。これがサラ自身なのだと思うと、自然と笑いが込み上げてきた。


『できたのか』


 眠そうに、ようやく終わったかと呆れ混じりの声を投げかける。対してサラは、満足したといわんばかりの笑顔で答える。


「うん。最高の出来だよ」


 便箋に紙を折り畳んで仕舞い、赤い蝋を垂らす。その上から花の紋様が描かれた印を押し、便箋は閉じられる。


 手紙を持って外に出ると、人々は手紙を渡し合っていた。


 ある者は焦る気持ちを抑えて、なんとか声を出している。またある者は、老いた母への感謝を伝え、涙を浮かべている。


 たくさんの優しさがあふれるこの街にサラは背を向けて歩み出した。

 強い風が、草原を駆け抜けている。気を抜けばサラも吹き飛ばされてしまいそうなほど。

 サラは目を瞑り、手紙を胸の前に置いた。


「あの人のところに、届きますように」


 手を離し、手紙は強風に乗って空を舞ったかと思うと、途端に見えなくなってしまった。

 きっと遠く、この空のどこかへ消えてしまったのだろう。サラは空に向かって微笑みかけ、また一歩。一歩と歩み始める。



 〇



 拝啓、アリア=イースター様


 久しぶり。アリアは今、どこにいるんだろう。

 

 私はね、この世界を旅しているんだ。最初はいろいろとわからなくて怖かったけど、見たことのない景色、出会ったことない人たちに会った。アリアを知っている人にも会ったんだよ?


 みんな、貴女を優しいって言ってた。それで私、アリアは昔からずっとアリアだったんだなって思ったよ。


 今でもときどき思い出すんだ。貴女と過ごしてきた、かけがえのないあの日々を。

 

 悲しくなってしまうけれど、私はそれでいいと思う。忘れてしまうよりは、ずっといいでしょう?


 正直まだ私は、本当の意味で人間を愛することができない。けれど、愛する努力は、まだ止めないから。


 ねえ、アリア。もしまた出逢えたなら、また名前を呼んでほしい。頭を撫でてほしい。力いっぱい抱き締めてほしい。約束だよ。


 まだアリアのところには行けそうにないから、待っててね。

 私を拾ってくれて、育ててくれて、愛してくれてありがとう。貴女に巡り逢えた幸運を、私は絶対に忘れない。


 またどこかで。あなたの一番の弟子であり最愛の娘、サラ=メルティアより。

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