第13ー9話言葉への執着と彼女の限界
そして読みたい本がまだ大量に積んであるにも関わらず、久しぶりにボルヘスを読んでみたくなって、代表作である所の「伝奇集」を読んでいたら、相当に広大であり深い世界がそこに展開されていて、一体今まで何を読んでいたのだろうかと思うほど、ボルヘスの見方に感心してしまいました。
中でもわたしも小説を書こうとしている人間ですから、「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」を読んで相当に何とも言えない衝撃と感激を受けてしまったのですが、それはもし日本でなら源氏物語などでやると意味はあるのかなんて連想してしまい、そうなると日本的に試みようと思えば、ピエール・メナールのやり方ではなくて、リミックスとしての手法を駆使した芥川龍之介みたいなのが、面白く書く手品の種ではないかとも考えたのですが、それを源氏物語でやるとするなら、三島由紀夫の「近代能楽集」の様な形になった物を想像してしまって、そうなるとどこか滑稽だなと思うのもあって、いや題材を変えたら面白くならないか、よく使われるのは竹取物語じゃないかとなって、しかしそれをSF的に書くのか、それとも宗教的な見立てで書くのかでも違って来そうですし、リミックスとは本気で取り組もうと思えば、現代的な形にするだけでも難しいのに、原典のエッセンスも持たせながら、それをボルヘス的に言うなら全く違った意味が浮かび上がる様な仕掛けも用意するべきだろうから、わたしが未だにそんな手法に拘って書き記した作品がない事からも、どれだけわたしがその時の気分が達成出来ないでいるかお分かりでしょう。流石にジミヘンがやってのけた「オール・アロング・ザ・ウォッチタワー」みたいな大胆な作曲に似たカヴァーをするのは、難行大事業だと思います。
ああしかし翻案と言うのはどこまで許されるのでしょう。
映画なんかで原作改変して、結末を変えてしまうのは、とてもわたしには嫌な気分になる事の多い体験が多いので、そうすると原作原理主義のように思えて、リミックス再構成または神無先生の言う再解釈、それがされるのなら、どの辺りまでの原作の再現や筋書きの忠実さが求められるのか、またはどう書いていけば、リスペクトがあると認められるのか。
それは二次創作とどの辺りから線引きがされるんでしょう、パロディやパスティーシュの問題はどうなっていくのでしょう、大体完全なオリジナルなんて現代にあり得るのかと言う問題もあります。
「ユリシーズ」は「オデュッセイア」が下敷きになっているし、音楽でも聖書の内容に触発されたオペラなど沢山ありますし、上手なモチーフの模倣とはどんな物なのでしょうと疑問に思ってしまいます。
はたまた、結末を変えるのにどんな意識があるのかしれません。
ただ面白おかしく弄ぶだけの為に、商業的な利益を考えて為されるだけの物は、原作者が怒り狂うパターンも多いと聞きますし、映画化は案外小説家にとっては鬼門であるのかもしれませんね。
そして、再構成するのなら、著作権の切れた古典にすべきなのかもとも思います。しかし、結末をハッピーエンドに変えてしまうのは許されないのでしょうか。
それが決定的な悲劇であるなら、それが蛇足になりかねない場合もありますよね。
でも、救いようのない物語を、全く別の物語にそれも登場人物も置き換えてしまって、そう「ユリシーズ」みたくするならば、やってしまうのも英断と言えるでしょう。
だからそんな事が出来なくても、芸術の神や学問の神なる者が、力を与えてくれたらいいなと思いつつ、どこまでもその力を身につけるのは自分の力でやるべきだ、怠けていて祈っているだけでは、何事も成らせる事は出来ないぞと葛藤してしまうのです。
歩だって勝手に成る訳はなく、相手の陣地に入って初めてと金へと進化を遂げられるのです。ポケモンだって同じだと思います。必死にトレーナーが育成するから、次の形態へと進化するんじゃないでしょうか。
些か古い例かもしれないので、ピンと来る人がどれだけいるかわかりませんが、このゲームは前世紀には社会問題になるくらいに相当流行ったそうなので、ゲーマーな訳のないわたしが引くのは奇妙に映ったかもしれません。ああでも何かアイテムで進化するのもあるんでしたっけ。
それにしてもわたしが何故こんなにも小説に拘っているかと言うと、どうもわたしはそれがシュールレアリスム的な手法に他人から見えていても、自分の中に具体的なテーマが確固としてあってそれがしっかり論理的に自分の中で形にならないと、作品に出来ないようです。
従って、いやどうして従ってと接続されるかはわかりませんが、詩と言う形式をやってみようとしても、上手く綴る事が出来ないのだから困りました。
散文で書くなら小説の構造で書く方が幾分も、構成も言葉の選び方も性に合っていますし、韻文で書くのは日本語ではわたしの能力がなさすぎるのか難しすぎて、それで詩的言語の想像は致命的に向かないのだと悟ってしまったからかもしれませんが、だからこそ先程のボブ・ディランで言えば、「やせっぽちのバラッド」だとか「ブルーにこんがらがって」の様な詩が書ける詩人を尊敬する傾向にありました。
トーキング・ヘッズの「ワンス・イン・ア・ライフタイム」に見える類の不条理的な世界を呈する詩なども好きですね。
どうしてこうも読んでて楽しめるのに、自分で書けないのか、詩的センスがなくて、長文をここまで皆さんが見て来てわかると思いますが、どこまでも饒舌にしかも舌足らずな所もある一見矛盾した語りになってしまうのは、わたしの性格上の素直じゃない部分が無意識に文章にも表れているのであるかもしれず、自然主義が標榜した赤裸々をある程度目標にして書いて来たこの作品も、もしかして一人称で語るわたしの謬見が含まれていたり、或いは皆さんにとってみれば、わたしこそが信頼出来ない語り手なのかもしれないので、わたし自身も書きながら自分がどう自分を騙していて、認識を都合のいい形にしてしまっており、歪曲する精神の計り知れなさに驚愕している次第でもあります。
秋と話していたら、よりそれが鮮明になるのですよね。
少し例えると、掲示された啓示、刑事が慶事で喜ぶ、この刑事は安月給である、のであるは繋辞だけど、形似している表現を沢山持つ事は、経事したいのだ、なんて阿呆らしい言葉遊びをするくらいなら出来るんですけどね。
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