二. スバイルの網

 バニラの森。別名、“黎明の灯火”。


 そう呼ばれているこの場所は、人里から少々離れている。

 そこに何らかの理由があるのか、もしくは単に人が生活するには不適合であったのか、それはわからない。いずれにせよ、長年その姿が変わっていないということだけは間違いないのだろう。

 更にいえば、今となっては近付く者さえ珍しく、もはや人々の記憶からは薄れつつあるということなのかもしれない。


 さて、その森は弧を描くように広がっており、中心部には複数の崖が存在している。

 こちらも不思議なもので、崖があるところに森が出来たのか、それとも、何らかの自然災害により森の中に崖が出来たのか、そんなことさえもわかっていない。いつ出来たという話なら、学者ですら説明がつかないのだからもうどうしようもないのだろう。


 要は謎の森であるということだ。

 “神秘”というベールに包まれ過ぎた結果とでもいえばいいのだろうか。今となってはもう大層な別名がついていることに疑問を持つ者すら滅多にいない。つまるところ、人々からは、単にそういうものだとしか思われていないのである。

 足を踏み入れるのは、時折現れる好奇心の強い者か、やはり、浮世離れした学者くらいなものが精々だろう。……いや、一つ付け加えておくならば、余程人目を避けての悪事を働く者。そんな不埒な輩も幾許かはいるのかもしれない。


 以上の点を踏まえると、人々が近寄らないのは自然であるといえる。むしろ、人がいるほうが不自然なのだから。


 そんな神秘な森を、今、私たちは歩いている。


 ◇


 私は視線を落として歩き、少し前を行くフューラもどこか物憂げに、ゆっくりとした足取りで先へと進んでいる。私たちの間に会話はなく、規則正しく刻まれていく足音のみが互いの存在を伝え合っているようだった。

 一見、喧嘩でもしているものと思われそうな距離であるが、これが私たちの普通なのだ。言い換えれば、並んで話をしていることのほうが滅多にないのである。


「よっ、おつかれさん! すまなかったな、パズル」


 そんな空気を遮り、突如上空から声と共に何らかの新たな羽音が加わる。ほどなくして、その何かが舞い降りた。

 私たちとは違い、森を飛んで来たようだ。もちろん、それに心当たりはある。あいつだ。


「全くだよ。セラヴィス」


 そのまま私の目の前へと現れた彼は、どこか嬉しそうにこちらへ向かって手を上げた。

 フューラも手を上げ、それに応えているようだったが、私はあえて知らん顔をする。こういった流れはどうにも苦手なのだ。


「どうだ? 新たな発見は?」

「無いね。けれど、得られる知識はまだ山ほどある」

「そうか。じゃあ無駄にはならねぇな」


 そう笑うと力強く私の肩を力強く叩く。体全体を使った動きはどことなく豪快である。

 もっとも、大柄であるため、所作はともかくとしてもそう見えてしまうのも否めない。翼を広げた姿といえば大層雄々しい。


 彼の名はセラヴィスという。羽を持つシルバ族であり、ここにいるフューラと同じく私の幼馴染でもある。

 ちなみにフューラもシルバ族で、やはりセラヴィス同様に立派な羽を持っている。


「そうでもない。フューラを送ることについては無駄だと言わざるを得ないよ。大体、羽があるんだから飛んでいけばすぐだろう。私に合わせて歩いているほうが幾分かは危険だろうに」


 私が不満を言うと、前を行くフューラが勢いよくに振り返った。目を合わせると、何か言いたげな瞳が二秒ほど留まり、そして不意に逸れた。

 目は口ほどに物を言う、とは言い得て妙である。


 つい口から出てしまったとはいえ、やはり本人を前にして不満を言うのは多少決まりが悪い。いや、大人気ないというべきだろうか。

 昔からの付き合いがあるが故か、彼らの前では深く考えずに言葉が出てしまう時があるのは改める必要がありそうだ。


「そんなことないわよ」


 そう言う彼女は少し拗ねたのかもしれない。それとも怒ったのか。

 顔を見るのは少し気が憚られたが、実際のところ、彼女はこちらを見ているようでそうでなかった。


「スバイルの網って知ってる?」

「……スバイルの網?」

「ああ、そういえば最近よく聞くようになったな。それがどうかしたか?」


 言われてみれば何度か聞いたことがあるのだろう、どこか耳に覚えがあった。確か巡礼者を野盗から保護する……というような集団であったような。

 もちろん、実際に見掛けたことはないので、どこかで聞いただけの知識である。


「ねぇ、セラヴィス。何か変だと思わない?」

「変、だと?」


 そもそも、このスバイルの網、たるものが、フューラに関係があるとは思えない。変とは一体どういうことだろうか。


「いい? 巡礼者を守るのがスバイルの網。そう認識している人は多いと思うわ」

「多いもなにも、スバイルの網の活動理念が不明確だ。今までの動きから考えればそう思うのが自然だと思うぞ」


 フューラの言葉の意図が掴めず、セラヴィスはますます首を傾げている。私もそうだ。

 では、私たちとほとんど同じくして過ごしている彼女が、一体それの何を知っているというのか。なかなか話の的を得ない。


「そこが問題なのよ。巡礼者はともかく、皆はスバイルの網を知らなさすぎる。そして、関心がなさ過ぎるの」

「……フューラ、そろそろ言いなよ。要は知らないところで何をしているかわからないっていうこと?  それも、君に何か関係がある、と?」


 何となく言わんとしていることはわかってきている。しかし、知らないものは知らない。となれば、フューラが知っている情報とは、一体自分たちにどのような関係があるのだろうか。


「その前にパズル。巡礼者とは何をしている人なのか、わかっているのかしら?」

「関心はないが……世界を崩壊から救うだの戯言を抜かしているのは知っている。実質的に何をしているのか、という話であれば、全くわからない」


 そうなのだ。巡礼者とは不思議と知られていない。正確には認知されているが、“何をしているのか”は全く不明というわけだ。

 それは、私たちに限ったことではない。


 遥か昔からそうであったようで、巡礼者は過去の書物にも度々登場している。良くも悪くも、巡礼者とはそういうもの、という認識が広がり過ぎているため、わざわざ疑問を持つ人々も少ないのかもしれない。そもそも、関わり合う機会がないから意識もしない。


「疑問に思ったことはない? どうして誰も追求しないのかしら。それとも、誰かが隠しているのかしら」


 フューラの言葉に頷かされる。意図的に誰かが隠蔽を重ねているようにも思えてくる。

 気にしなければ、誰も疑問にさえ思わないだろう。というより、そもそもから信仰的な何かを感じ、深入りを避けてしまっている節もあるのかもしれない。


「……それがスバイルの網だと?」

「それはわからないわ」

「んん? どういうことだ? 俺はよくわからんぞ、さっぱりだ」


 セラヴィスが首を捻る。彼は既に話からはぐれてしまったようだ。

 私は続きを促すように、黙って彼女を見つめた。


「……人拐いの噂があるの」


 一呼吸置いてから、ようやくフューラが話を切り出した。


 ◇


 目を瞑って両手を広げる。そして、体勢はそのままで羽ばたくような想像をし、数秒間動きを止めた。

 彼ら……シルバ族と違う点は、両手を翼に模している点だ。彼らの背には羽がある。


 風が吹いているのか、周囲は自分を置き去りにするように絶えず変化を繰り返していた。

 耳を通り抜けていく振動は、確かに自分がそこにいるということを実感させてくる反面、一緒に来たらどうだと誘っているようにも感じる。これではまるで私次第だと言われているようだ。


 イメージし、没頭する。自分が飛んでいる姿を。

 風を纏うように飛翔する私の姿は、今よりも遥かに満たされているように見えた。


 ──これは欲求なのか? それとも……。


 やがて、覚悟を決めるように目を開いたのは、更にしばらくの時間が経ってからだった。


 眼前には森を、いや、遥か先にある街をも一望出来る景色が広がっている。そんな場所に私は立っていた。

 見知った景色だ。更にいえば、夜になれば街に明かりも灯り、より綺麗に見えるだろう。

 そんなこの場所を私はとても気に入っている。それこそ毎日欠かさず通っている。正確には、森の中に住んでいるので庭のような感じかもしれないが、仮にそうでなくても、きっとそうしたことだろう。


 少し話が逸れるのだが、以前この場所で母親から聞いた話がある。あまり多くを語らない母であったが、この日は珍しく父の話をしてくれたのだった。

 その内容とは、突拍子もない話であるが、自分の父親はこの森で眠っているらしい。無論、実際に眠っているわけではなく、この地に埋葬されているという意味なのであろうが。

 しかし、例えそんな話であっても、自分にもちゃんと父親がいたんだと、子供ながらに安心した記憶が未だに残っている。

 ……その母も今はもういない。


「ねぇ、羽は?」

「……ない」


 ──そんな場所に他人が入って欲しくなかった。


「そう? 私にはあなたが飛んでいるように見えたのだけど」


 いつしか日も暮れていたようで、奥のほうでポツリポツリと街の明かりが灯っていく中、その姿をしっかりと捉えることが出来るまでは多少の時間が必要だった。

 出てきたものは、一人の女性の姿だった。それも、イルバ族のように見える。


「……羽は?」


 今度は私が問う番だった。

 シルバ族と違い、イルバ族に羽はない。しかし、羽無くして険しく迷路のようなこの場所へ来るということは、ここに住む自分以外にはまず考えられなかった。

 ところが、現に彼女はここにいる。


「探しているわ」


 そこでようやく気が付いた。

 ……いや、思い出したのだ。私は以前から彼女のことを知っている。


「……まさか、場所がわかったのか?」


 ──そう。彼女は、あの時ぶつかった。


「いえ、辿ってきたのよ」


 ──そう。あの手は、あの時本を落とした。


「同じじゃないか」


 ──そう。あの瞳は、あの時私を見つめていた。


「違うわ。一度切れるとわからないもの」


 ──そう。あの口は、あの時夢で言葉を紡いだ。


「ねぇ、パズル。もう一度、飛んでみる?」


 ──そう。あの夢は、今に繋がっていたのかもしれない。

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