古書の紡ぐ系譜

山岡流手

一. 上空

 思い切り踏み込み、その勢いで高く跳んだ。いや、飛んだ。足を引っ張るような重力なんて微塵も感じず、恐怖もない。そういったものは、飛び出した時にそのまま置いてきたのかもしれない。


 くるりと体を回してみると、並ぶように眼下の景色もくるりと回る。私は少し楽しくなって、つい何度もくるくる回ってしまう。こんな調子では、どこか自分自身が空の一部になったようだと勘違いをしてしまうかもしれない。……そうだ。どうせ間違っているのなら、今だけは、自分が世界の中心にいると言い張ってみてもいいのだろうか。


「そろそろ、いいかしら?」


 少し呆れたような、それでいて、どこか心配したような声が、まるで夜空を切り裂くように頭に届く。そう、“頭に届く”のだ。


 私は返事もせずに、ゆっくりと仰向けになるような感覚で空を見上げる。見えているのは空か、宇宙か、もしくは、両方なのか。何にせよ、そういう話であれば、きっと喜んで聞いただろう。


「聞こえているのでしょう?」


 ──ああ……もちろん聞こえている。聞こえているさ。ただ、返事をしないだけなのだから。


 意地になったところで完全にシャットアウトできるわけでもなく、少し冷たくなってきた指先だけが、その声に呼応するかのようにピクリと微かに反応する。折角、夜空を彩る流星にでもなったような気分でいるのに、一気に現実へと戻されるような気がして面白くなかった。

 その証拠といっては何なのだが、あれほど心が自由であったにも関わらず、今では憂鬱な感情ばかりが溢れんばかりに胸中を渦巻いている。いっそのこと、この惑星から飛び出してみるのもいいかもしれない。


 結局、そのまま私は返事をしないことにした。そして、彼女もそれ以上は何も言うことがなかった。


 程なくして、プツリ、と何かが切れる音がして、私の体がぐらりと傾く。これから落ちるのだろう。

 疎らに煌めく夜の街は、上空からは見上げる夜空と何も変わらないと朧気に感じる。こうしていると、飛んでいるのか、落ちているのか、その境界すら曖昧に思う。足が先なら落ちていて、頭が先なら飛んでいる。それでいいのではないだろうか。


 ──ならば、私はまだ飛んでいる。

 

 ◇


 トンッと何かが落ちる音がした。


「あっ……」


 続いて、小さな吐息に多少の色が付いたような、呟きのような音が耳に届く。ぶつかる、という感じではないにせよ、軽い接触程度はあったようだ。


 私は床に転がる様に揺れているカップとじんわりと溢れる液体、そして、そこから沸き立つ湯気を順に眺めながらそう推測する。それから最後にようやく視線を前方の“それ”へと向ける。


 ──確か、“あっ”と言ったのだったか。

 その状態で止まっている口元からは、今もまだじんわりと白い吐息が漏れており、それに釣られるように私も“あっ”の口を再現してしまう。

 確かに、この形なら合っているようだ。


「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」


 ビュウ! と風が吹くように、後方から発せられた声が真っ直ぐに私を追い抜いていく。きっと何も言わない私にもどかしさを感じたのだろう。

 次第に足音が私を通り過ぎ、その主が目の前の人物に駆け寄っていく姿がちらりと映る。

 尚も私は動く気にならず、そのまま立ち尽くしながら視線を落とした。逸らしたわけではない。


 ──夢、だったのだろうか?


 口を半開きにすると、視線でなぞるように空を見た。

 確かつい先程は夜だったのに、不思議と今はとても眩しく日が昇っている。その泰然たる様を見てしまっては、先程まで夜だったなどとはとても言い出す気にはならなくなる。


 ──やっぱり夢、であったのだろう。


 どこか釈然とはしないものの、それ以外に上手く説明できるわけもなく、白い吐息を力なく口から吐き出した。


 はぁ……。


 どの道、誰かに説明するわけでもない。

 そこで、ふと思いつき、舞い上がっていくその名残を追いかけるように、そっと掌を這わせるとそのまま指を閉じて胸元へと引き付ける。まるで、見えない糸を手繰り寄せるかのような仕草だった。


 ──この吐息は夢の世界まで繋がっていやしないだろうか。


 そんなことを考えながら、ようやく視線を元の場所へと戻す。


「……すまなかった」


 思い出したように謝罪の言葉を口にすると、すぐに視線を逸らした。こんな状況で顔を覚えられてもいいことなんてあるはずがない。


 何度かくるくると回った後にようやく私の足元に落ち着いたカップへと手を伸ばした時、他にも見慣れた本が落ちていることに気がついた。


「……夢の国ミレー」


 つい動きを止めて眺めてしまう。

 子供の頃に読んだことのある、不思議な犬と男性が夢の中を冒険する物語だ。シリーズ物であったはずだが、まだ続いているのだろうか。


「知っているの?」


 少し躊躇うが、結局私は“夢の国ミレー”を手に取った。


「知っているよ」


 そのまま視線は本に向けながら、突き返すようにそれを差し出した。彼女はこちらを見ているのだろうか。

 ところが、少し待っても一向に本を受け取る気配が感じられない。怪訝に思いつい顔を上げてみると、あろうことかしっかりと視線を捕まえらてしまう。待ち伏せにあったようだ。


「じゃあ、キュライナ。キュライナ・バレスタインはどうかしら?」


 不思議な感覚だった。


「……その本の作者だといわれている人だろう? 実際には記されていないはずだったが」


 無視を決めてもよかったが、そうするのも憚られたので仕方なく、今度もやはり顔を見ずに返事をする。


「パズル! その態度は駄目よ」


 先程から心配そうに眺めていたのは知っていたが、ここにきて説教とは呆れたものだ。よりによって名前を呼ぶとは。


「フューラ、もう行こう」

「え、ええ? 駄目よ! 待って! 待ちなさい!」


 彼女の胸に本を押し付け、一人出口へ歩き始めた私の前に、スッとカップが差し出される。


「いえ、構わないの」


 反射的に受け取る私に、彼女は少しいたずらっぽく問いかけた。


「一つだけ教えて。あなたはこの本が好きかしら?」


 カップから徐々に視線を移すように相手の顔へと持っていく。初めてどんな顔をしているのか気になったからだ。


 声色からは単なる質問という感じに捉えていたものの、意外にもその瞳は私を真剣に見つめており、急かすわけでもなく、それでいてしっかりと私の返事を待っている。私にはそう見えた。


「ああ。好きだった」


 それだけ答えると、静かに横を通り過ぎる。どんな答えを望んでいたのか気にならないといえぱ嘘になるかもしれないが、もうこの辺りでいいだろう。


 その頃にようやく店員と思われる足音が近付いてくる。


 ……全部溢れてしまったらしい。


 空になったカップを拭うと無造作に仕舞った。今日は少し冷えるかもしれない。


 ◇


 街を出るとすぐに森に入る。距離にしてみれば少し離れただけなのに、こちらの空気が澄んでいるように感じるのは気持ちの問題なのだろうか。

 そんなことを考えながら、私はフューラと森の中を進んでいく。


「パズル、さっきはあんまりだったんじゃない?」


 しばらく歩いていると、窘めるようでいて半ば諦めているような声色で背中をちょんと小突かれた。顔を見ないで言うあたりは彼女の聡いところだと思う。


 ──やっぱり。


 内心で少しの溜め息を吐く。


「いいよ。もう会わないだろうし」


 話を打ち切るようにそう答えるも、そこでふと先の“夢”のことを思い出す。


 ──そういえば……あの声と似ていたな。


 そう思うと少しは気になったが、すぐに大方話し声でも聞こえていたのだろうと結論付ける。それが偶然そのまま夢に出てきたと考えれば、さほどあり得ない話ではないと思う。何せ夢だ。

 それに、むしろ一瞬眠ってしまったことのほうが自分では信じられない話かもしれない。


「はいはい。もう言わない」


 一言だけは言っておきたいという彼女の性分が出たのだろう。あっさりと諦めてくれたらしい。そうなると今度はますます夢のことが気になってくる。


「それよりフューラ、私はどれくらい止まっていた?」

「どれくらい?」


 声がしてからピタリと足音が途切れてしまう。しばらく進むがそのまま再開される様子もなく、どうも様子がおかしい。

 こちらの予想ではそう長くはないはずではあるのだが。まさか、それほど長く──


「うーん? いつかしら? 止まるって?」


 フューラはわざとらしく顎に指を添えながらそう言い放った。それもふざけているようには見えない態度で。


「なに?」


 思わずこちらも足を止める。そんなことがあるのだろうか。


「なにってなあに? まさかあなた……どこかで寝ていたりでもしたのかしら? 器用ね。お姉さんは気が付かなかったわ」


 次第に冗談だと思ったのだろう。クスッとからかうように笑うと今度は私を置いて歩き始める。


「パズル、私はもう何も言うつもりはないわよ」


 どうやら彼女は、私が話を逸らそうとしているのだと勘違いしたようだ。


「……ああ」


 信じられない話だが、ほんの一瞬の出来事だったということだろう。それも、周囲は気づかないほどの。


 取り残された私は、腕を広げて空を見上げた。


 ──だが……もし、そうでないのなら。


 そのまま溶け込むようにように目を閉じる。

 あの時、私は“二人”いたのかもしれない。

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