32.美弥子、一難去ってまた一難。



「うっぷ……」



 未だに頭がぐるんぐるんする。目を瞑って安静にしても、一向に楽にならない。首の後ろで捻じれたフードを直すどころか、気持ち悪いという言葉さえ口にする気力もない。


 それでも、さっきまでいた箱の中よりは、断然マシだ。

 私は、ふくふくと気持ちいい毛皮に頬を寄せ、ただただぐったりとうつ伏せる。



「チュ?」



 つと、下から声が上がった。

 気遣わしげな鳴き声に、私は目を薄っすらと開ける。



「だ、大丈夫。気にしないで」


 そう呟き、ゴツい飾りの付いた首輪を撫でた。


 それでも、ゴールデンハムスターの赤身ちゃんは立ち止まり、「チュー」と心配そうに振り返る。背負ってる私の頭を、前足で優しく擦った。


 その感触と温もりに、ほんの少しだけ気分が楽になる。



 また歩き出した赤身ちゃん。私に負担が掛からないようにか、さっきよりも一層揺れが小さくなってる。その心遣いがありがたい。感謝の気持ちを込めて、無事にママの元へ帰った暁には、とっておきの干し苺をプレゼントしようと思う。



 しかし、何でこんな所に赤身ちゃんがいるんだろう。


 そもそも、何であの箱の中に、赤身ちゃんもいたんだろう。



 もしかして、私よりも前に捕まってたのかしら。可能性は十分あり得る。なんせ赤身ちゃんは可愛いもの。きっと、大トロのお爺ちゃん達とはぐれた所を捕獲されたに違いない。


 だが、赤身ちゃんは私なんかよりも、相当逞しかった。


 吹っ飛ばされた私が、壁にぶつからないようキャッチしてくれただけでなく、頬袋からオゲェッと吐き出した縄で、私を自分の背中へ括り付けたのだ。

 更にオゲェッとノコギリを吐き出し、箱の床へ穴を開けた。外の様子を窺うと、近くの木に「チュッ」と飛び移る。そのまま襲撃犯に背を向け、こうしてとっとこ逃げてる、というわけだ。



 正直、何で頬袋にノコギリなんか入れてたんだよって思わなくはなかったんだけどさ。もうツッコむ元気もないし、兎に角早く逃げたかったので、スルーする方向で行かせて頂きました。



 いやー、しかしこう考えると、私って大分役立たずだな。ただ箱の中で踏ん張ってただけだし、酔って碌に動けもしない。赤身ちゃんの背中に揺られるだけのお荷物と化してる。本当申し訳ない。

 それでも赤身ちゃんは文句も言わず、お荷物を背負ってとっとこ森の中を進んだ。時折木の影や葉っぱの間に隠れては、野生動物や人間をやり過ごす。


 あの人間は、恐らく襲撃犯だろう。足取りが荒かったり、何やら苛立たしげな声を上げてた。

 何より、赤身ちゃんが姿を現さなかったという事は、安心出来る相手ではないという事なんだと思う。



「チュー……」


 大きな葉っぱの裏から、赤身ちゃんは辺りを窺う。よし、とばかりに頬袋を揺らすと、またこそこそ歩き出す。


 何となく、人間との遭遇率が、じわじわと高くなってる気がする。それは赤身ちゃんも感じてるのか、足取りが慎重になった。耳も頻りに動かし、警戒してるようだ。その空気につられ、私も息を潜ませる。



 稀に見る緊張感と嘔吐感に、どんどん体が重くなってく。頼むからもう休ませてくれ。いっそ魔王様でもいいから保護して下さい。


 あ、でも、赤身ちゃんが魔王様を敵と判断したら意味ないかも。あの見た目だもんなぁ。赤身ちゃんもびっくりして、とっとこ逃げちゃうかもしれない。

 となると、もし魔王様を見つけたら、私が赤身ちゃんに伝えないといけないのか。そんな体力残ってるかな? ちょっと微妙。なんせ唇を動かすのも億劫な位だもんなぁ。


 出来れば綺麗なお姉さんと遭遇出来ますように、と心の底から祈りを捧げる。



「チュッ」



 不意に、赤身ちゃんの耳がぴんと立ち上がった。

 近くの草の影に潜り込み、身を潜める。



 数拍後、どこからともなく足音が近付いてきた。土で汚れた大きな靴が、草の隙間から見える。ズボンから覗く足首も太い。


 その人物は、重々しい足取りで、私達の前をゆっくりと通過してく

 ――かと、思ったのに。



『……――?』



 徐に、立ち止まった。


 私達が隠れてる草の、真ん前で。



 動かない足に、私も赤身ちゃんも緊張する。じっと息を潜め、見つからないよう祈った。



『……』



 漸く、大きな靴が、動いた。

 私は、思わずほぅと息を細く吐き出す。




 瞬間。



 私達が隠れてる草が、かき分けられる。




 白いお面を付けた顔が現れ、私達を真上から覗き込んだ。




「ぎゃあぁぁぁぁぁぁーっ!」

「チュウゥゥゥゥゥゥーッ!」



 全力で、叫んだ。

 赤身ちゃんはその場で飛び跳ね、すぐさま身を翻した。




 ジェ〇ソンだ。


 十三日の金曜日に、チェーンソーを振り回す殺人鬼がいた。



 だってあの真っ白いお面、どう見てもアイスホッケーマスクだったもの。それをこんな森の中で付けてるなんて、正気の沙汰じゃない。しかもフード付きのマントなんか着たまま、どうやってアイスホッケーやるつもりなんだよ。やれるわけがない。

 なら何の為に付けてるんだ?

 それは、あれか。

 チェーンソーを振り回す感じの、あれなのか。



 ぶるりと勝手に体が震える。嘔吐感やら恐怖感やらで、どんどん手足が冷たくなってく。

 それでも、走る赤身ちゃんの背中から振り落とされないよう、ゴツい飾りの付いた首輪をどうにか掴む。両足にも力を入れ、赤身ちゃんの体を挟んだ。


 赤身ちゃん、どうか頑張って。

 お願いだから逃げ切って。

 私、まだ死にたくない。



 しかし。



「チュウッ!?」


 赤身ちゃんは、何故か急停止した。驚いた様子で、前を凝視してる。

 どうしたのかと、私も同じ方向を見た。



 土で汚れた大きな靴が、ある。ズボンから覗く、太い足首も。



 ……まさか。



「ッ、チュッ!」


 赤身ちゃんは、勢い良く地面を蹴る。今度は右側へ向かって駆け出した。


 けれど、またしても止まる。



 前方には、泥の付いた大きな靴。



「チュッ! チュッ! チュウゥゥゥーッ!」


 赤身ちゃんは、次々に行き先を変えては、逃走を試みる。

 けれど、何度走り出しても、数秒で立ち止まらざるを得ない。



 何故か、目の前に同じ靴が現れ続ける。


 さっきまで、確かに別の場所にいたのに。



 私達が小さいから? だから瞬間移動並みに早く動いてるように見えるだけ? けど、それにしては早過ぎる。一体どうやって私たちの前へ回り込んでるんだろう?


 分からない。


 分からないけど、非常にピンチです。



「チュゥゥゥ……ッ」


 ぐぬぬぬ、みたいな唸り声を上げると、赤身ちゃんは頬袋を前足で押した。ハムスターサイズのパチンコをオゲェッと吐き出すと、勇ましく構える。


「チューッ!」


 食らえーっ! とばかりに、ゴルフボール大の玉を発射する。続けて三つ、四つと連射し、十三日の殺人鬼へ攻撃を仕掛けた。



 だが、何故か届かない。


 殺人鬼の手前で、透明な壁のようなものに弾かれてしまう。




 ジェ〇ソン。お前、バリアなんて使えたのか。




 攻撃が効かないと分かり、赤身ちゃんは後ずさる。じりじりと下がった分、殺人鬼は迫ってきた。


 そうして睨み合いが続くも、やがて背中に木が当たった。


 目の前には、土で汚れた大きな靴。



「チュッ!」


 赤身ちゃんは、通じないと知りながら、それでもパチンコを構える。威嚇なのか、前歯をキシャッと相手へ見せ付けた。



 しかし、そんな小動物の威嚇も何のその、とばかりに、殺人鬼は更に距離を詰めてくる。



『―――……』


 頭上から、手袋に包まれた掌が、降ってくる。



 もう駄目だ。


 私は目を瞑り、縋るように赤身ちゃんの体を抱き締めた。




 直後。




 私達と殺人鬼の間を、クリーム色の線が、駆け抜ける。




 ほぼ同時に、物騒な音も、響いた。




『っ、――っ?』


 殺人鬼は、いつの間にか離れた場所にいた。伸ばしてた手を押さえながら、私達の少し上を見てる。つられて私も見上げた。



 そこにいたのは、一匹の子兎。


 長い耳をぱたぱたと羽ばたかせながら、緑のリボンと、クリーム色の肉垂を、たなびかせた。




「……プゥ」



 鋭い目付きで、じろりと相手を睨む。




「プリンちゃん……っ!」


 嬉しさが全身を駆ける。自ずと掠れた声が、口から零れ落ちた。



 プリンちゃんは、こちらを一瞥する事もなく、殺人鬼へ突撃していった。風を纏いつつ、体当たり紛いの蹴りをお見舞いする。殺人鬼に避けられるも、すぐさま追撃した。


 物騒な音が忙しなく奏でられる。相手は防戦一方。プリンちゃんが次から次へと攻撃を仕掛けてく。

 勇ましい鳴き声が、辺りに鋭く響いた。



「チュッ!」


 今だっ、とばかりに、赤身ちゃんが身を翻す。プリンちゃんに背を向け、走り出した。



 しかし。


 目の前に、透明な壁が立ちはだかる。



「チュウッ!? チュウゥゥゥーッ!」


 頬袋からオゲェッと吐き出したノコギリで、透明な壁を破ろうとする赤身ちゃん。けれど欠片も削れない。ならばとトンカチやよく分からない液体なんかを次々と吐き出しては、透明な壁へぶつけてく。

 結果は、芳しくない。


 赤身ちゃんに、若干の焦りの色が見える。




「ッ、プ……ッ!」




 つと、痛々しい音が耳に入ってきた。



 かと思えば、唐突に、静かになる。




 私は、反射的に振り返った。





 殺人鬼の足元に、クリーム色の毛玉が転がってる。





「プ……プリンちゃん……?」



 長い垂れ耳は、地面へ力なく投げ出され、ぴくりとも動かない。首に巻いてた緑のリボンも、解けて垂れ下がってる。



 そんなプリンちゃんを、殺人鬼はじっと見下ろした。



 かと思えば、マントの中に、ゆっくりと手を入れる。



 反対の手は、プリンちゃんへと、伸ばされた。



「……っ!」


 自分の口から、ひゅ、と空気の漏れる音が零れた。

 全身が、一機に冷たくなる。


 がたがたと震える手足。荒くなってく息。

 苦しさに、目の前が白くなってきた。


 それでも、目は殺人鬼から離れない。



 止めて、と心の中で、叫ぶ。




 すると、私の願いが届いたのか。




『―――っ!』



 殺人鬼の後ろから、チョコレート色の毛玉が、飛び出してきた。



 魔王様も、やってくる。



 ドスの効いた雄叫びを上げながら、腰から抜いた剣を、高々と振りかぶる。




 良かった。

 ほっと胸を撫で下ろすと同時に、私の意識は、遠のいていった。



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