9.美弥子、魔王と対峙する。



 油断した。

 油断したとしか言いようがない。



 原因は、熊さんを取っ掛かりに、着々と警察官的な男の人達へ媚びを売れてた事だろう。命の危機を脱したという手応えがあったからこそ、私はこんな失態を犯してしまったのだ。


 兄ちゃん達子カンガルーと一緒に追い掛けっこをして、程よく疲れてたというのもある。加えて今日は凄くいい天気で、日向ぼっこをするママのお腹にくっ付くと、温まった毛皮が本当に気持ち良かった。ママの寝息を子守唄に、ついついお昼寝をしてしまったのだ。




 その結果が、この状況である。




『……』



 私の目の前でしゃがみ込む、茶色い軍服を着た男の人。

 顔の造形だけで言えば端正なのかもしれないが、その目付きは非常に悪い。表情もなく、生易しくない眼差しを、ただただ私へ注いでくる。



 はっきり言って、わたくし美弥子みやこ、ビビっております。



 だってさ、只管じーっと見てくるんだよ? 一切目ぇ反らさないんだよ? 監視してるのかって位、じっとりと凝視してさ。時々手を伸ばしてくるの。その間、一度も表情が崩れないし、一言も発しないんだよ? その癖威圧感満載で、今も「お前を三味線にしてやろうか」って言わんばかりに、見下ろしてくるんですよ。


 あまりの怖さに、私は即刻魔王というあだ名を付けました。



 この人、たまーにここへ来るんだよな。カンガルー達の態度から、警察官的な方々の中でも偉い部類であると窺える。

 もしかしたら、お忍びで視察しにきた社長的なものなのかもしれない。なんせ現れる時はいつも一人なのだ。それも、飼育当番的な方々が誰もいない時を狙って。


 別に、お仕事の一環なら、致し方ないと思いますよ。見るべき所は見て、直すべき所は直した方がいいと思います。


 でも、ですね。

 その貴重な時間を使ってまで、私を見る必要はないと思うんですよ。


 ほら、私に何か問題があった所で、所詮は猫もどきですから。言葉なんか分かりませんし、直しようもありませんから。



 ですから、是非ともどっか行って下さい。本当お願いします。



 そんな事を願ってると、魔王様が、徐に動いた。


 ゆっくりと、目を瞑る。


 そのまま数秒止まると、音もなく瞼を開く。そうしてまた、無表情に私を見下ろした。



 ……これ、最近警察官的な男の人達も、よくやるんだよな。



 なんだろう、流行ってるのかな。こっちを見たかと思えば、目を瞑って笑うっていうの。別の方向を見ながら笑ってる人もいたな。

 ガン見されるのは嫌だけど、あれはあれでちょっと気持ち悪いなとも密かに思ってしまいました。

 まぁでも、あのデレデレした顔が正面にこないだけいいかなとも思っております。その分、近寄りやすいっていうか、媚びを売りやすいっていうか。



『……―――――』



 あ、この妙な呪文も、最近よく聞くな。


 でも、何て言ってるんだろう? 何とも言えぬ丸さというか抑揚というか、そんなものが付いた言葉なんて、心当たりはない。この国特有の単語とかなのかな?

 こっちを見る度、ほにゃほにゃーほにゃほにゃー言ってくるから、正直軽く引いております。

 何なんだろう。猫ちゃーん、みたいな、そんな意味合いなのかな?



 まぁ、何にせよ、だ。



『―――――』



 この目の前に差し出された猫じゃらし的なものを、一体どうしたらいいのだろうか。



 ゆらゆらと左右へ揺らされる羽根。操ってるのは、勿論魔王様でございます。相変わらずの目付きの悪さで、感情もくそも見えない表情で、威圧感満載に羽根の付いた棒を振っております。



 お分かり頂けるだろうか。


 この訳の分からない状況に突き落とされた挙句、訳の分からない期待を向けられる恐怖を。



「……」



 ごくり、と込み上げた唾を飲み込み、私は魔王様を見上げたまま、そーっと足を後ろへ引いた。反対の足も下げ、両手は背後へ向けて伸ばす。




 そうして、求めてた柔らかな感触が掌に当たった瞬間、全力で踵を返した。




 そのまま自分の出せる最高速度でママの体をよじ登り、お腹の袋へと飛び込む。




 ふかふかした温もりに包まれ、ほっと全身の力が抜けた。ママの毛皮に顔を埋めて、小さく唸り声を上げる。


 あー、怖かった。



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