3.美弥子、決意する。


 妙な場所に来てから、一体何日経ったんだろう。三十を過ぎた辺りで、数えるのを止めてしまった。


 それでも太陽は昇るし、日は沈む。時間は常に進み続ける。



 私の気持ちを置き去りにして。



「……」


 あの巨大な生き物と遭遇して以来、私は温かく柔らかな場所に潜り込んだまま、日々を過ごした。


 抱えてた膝を、そっと伸ばす。気付かれないように、でもきっと気付かれてるだろうけれど、寝返りを打った。上を向き、外へと続く入口を見上げる。



 そこから覗く、カンガルーの顔。



 まごう事なき、カンガルーだ。

 ただし、超特大の。



 その鼻の穴を眺めてると、不意に、ばっしばしのまつ毛に縁取られた瞳が、こっちを向いた。



 直後、私は顔を伏せ、身を小さくする。



 ふかふかの茶色い毛に顔面を埋めてると、徐に、毛皮越しに撫でられた。一層体を強張らせるも、それ以上の触れ合いは何もない。

 私を撫でてた感触はそっと離れ、視界の端に見えるカンガルーの視線も、別の場所へと移った。




 あの日、目を覚ますと、私は森からこの温かな空間に移動してた。

 最初はどこだか分からず、不安でもがいたものだ。けれどすぐさま明かりが差し込み、同時に巨大なカンガルーの顔も、現れた。



 私はどうやら、カンガルーに捕まったようだ。



 そして何故か、カンガルーのお腹の袋へ入れられてる。



 いや。私がこの中へ籠城してる、と言った方が正しいだろう。引っ張り出されない限り、一日中袋の中で膝を抱え、じっとしてた。


 いつか夢が覚める事を、願いながら。


 しかし、いつまで経っても私は袋の中にいる。目が覚めてもベッドの上にはおらず、友達からの電話もない。ただただ温かな毛皮に包まれながら、穏やかに揺られてるだけ。



 これは、もう受け入れなければいけないのかもしれない。



 現実だって。

 夢じゃないんだって。




「……っ」


 滲んだ涙を、着ぐるみ猫パジャマの袖口で拭う。唇を噛み締め、零れそうな嗚咽を飲み込んだ。


 泣いて戻れるなら、いくらでも泣いてやるよ。でも、そうじゃないって事はもう知ってる。


 泣いた所でどうにもならない。ただ着ぐるみ猫パジャマと毛皮が湿って、カンガルーが袋越しに私を撫でるだけ。そんな事、分かってるんだよ。


 それでも、出るものは出るんだ。


 自分ではどうにもならなくて、この状況もどうにもならなくて、それでも私は生きていかなきゃいけなくて。



 そう。

 私は、生きていかなきゃいけないんだ。



 どんなに悲しくてもお腹は減るし、どんなに苦しくても眠くなる。

 体は生きようとしてる。

 私の気持ちなんかお構いなしに。



 でも。



 生きてさえいれば、いつかは。



 そんな風にも思い始めてる自分がいる。



 嘆くばかりではなく、今を受け入れて、必死で生きて。




 そうして、いつかは。




「ずず……」


 私は鼻を啜り、大きく息を吐き出した。そして、ゆっくりと、毛皮をよじ登ってく。


 袋の入り口から、外を窺う。

 カンガルーが、きょとんと目を丸くしながら私を見てた。私も、毛皮に張り付いたまま、見つめ返した。


「グーゥ?」


 どうしたの? とばかりに、カンガルーは首を傾げる。ばっしばしなまつ毛に縁取られた目が、緩やかな弧を描く。



 このカンガルーは、いつも優しい目をしてた。

 この子だけじゃない。他のカンガルー達だって、私を刺激しないよう、いつも静かに接してくれた。

 私が泣いて暴れた時だって、怪我をさせないように押さえて、落ち着くまでそっとしておいてくれた。私に話し掛けてるような鳴き声も、何度となく聞いた。優しいカンガルー達なんだと思う。



「……だから、大丈夫」



 だと、思う、という言葉は飲み込み、私は初めて、自主的に袋から顔を出した。



 目の前のカンガルーは、タグの付いた耳をぴんと立てる。次いで、「グーゥ」とどこか嬉しそうに鳴き、鼻を私へ寄せた。


 鼻息が吹き掛かり、反射的に身を引く。目は鼻の下にある口へと吸い寄せられる。間違いなく私がすっぽりと入るサイズ感。今にも食べられてしまいそうな景色に、体が勝手に震え出す。


 でも、大丈夫だ。

 だってカンガルーは草食だから。人間なんて食べませんから。

 平気平気。そう何度も自分に言い聞かせる。




「キュッ」

「クゥーッ」



 不意に、視界の端から、ぴょんぴょこ飛び跳ねる影が近付いてくる。



 見れば、小さなカンガルーが二匹、いた。いや、私からしたら十分大きいんだけど、でも他のカンガルーの半分もないし、顔も幼い感じなので、恐らく子供なんだろう。


 その子達は私を見上げると、頻りにキューキュークゥクゥ声を上げる。前足を上げ下げしたり、タグの付いた耳を振ったりした。

 その様子から、鳴き声を翻訳するとしたら、こんな感じだろうか。


『へいへい、そこの彼女っ。オイラと一緒に遊ぼうぜっ』

『今なら特別に、アタイの尻尾を触らせてあげちゃうよっ』

『ほらほらどうだい、気持ち良さそうだろう? なんならオイラの腹も触ったっていいんだぜ?』

『さぁさぁ、早くおいで。アタイらが、本物の遊びってもんを教えてやるよっ』


 そんなイケイケな雰囲気を醸し出しつつ、小カンガルー達は尻尾をふりふり、ついでにお尻もふりふりしてる。



 私はしばし彼らを見下ろすと、覚悟を決め、袋から身を乗り出した。



 そして、すぐさま戻る。




 袋から地面までの距離が、想像以上に遠過ぎた。




 え、これ、確実に五メートル以上あるよね? 私の身長が一五二センチだから、およそ四倍弱。

 無理じゃない? 自分の身長の四倍もの距離を命綱なしで降りるとか、絶対無理じゃない? こちとら普通の女子大生よ? しかも、一か月以上カンガルーの袋に引き籠ってたさ。お蔭で筋肉衰えてますよ。間違いなく転落コースですよ。


 ど、どうしよう。決めた筈の覚悟が、あっさりと揺らぎまくる。

 袋の縁を掴んだまま、呆然と下を見つめてると。



 不意に、地面が近付いてきた。



 いや、違う。



 立ってたカンガルーが、横になったんだ。



 五十センチ程下にある地面を見やり、それから、カンガルーを振り返る。


「グーゥ」


 目を緩め、タグの付いた耳をぴくりと揺らす。

 まるで、大丈夫よ、頑張って、と言わんばかりに、優しく喉を鳴らした。



 私はカンガルーを見つめ、噛み締めた唇をそっと開く。


「……ありがとうございます」


 小さく頭を下げ、私は、再度身を乗り出した。毛皮を握りながら、片足を下へ伸ばす。つま先が地面に当たり、もう片方の足も下ろした。

 体の重心が安定した所で、掴んでた毛皮を離す。視界が少しだけ下がり、足の裏に固く冷たい土の感触が広がる。



 私は、ゆっくりと振り返った。

 子カンガルー達と目が合う。やっぱり私よりも数段大きい。多分、三倍位はあるかな。


 喉を反らして、高い位置にある彼らの顔から視線を離さないまま、私は一歩、また一歩と、足を踏み出した。



 そして、目の前までやってくると。




「……えい」




 手前にいた小カンガルーの尻尾を、両手で触ってみた。



 細く柔らかな感触を楽しんだ後、ちらと様子を窺う。




 小カンガルー達は、目を輝かせてた。




 気持ち口角を上げたかと思えば、元気良く鳴き声を上げる。


『よしっ、いいぞ彼女っ。その調子で、今度はオイラの腹を触ってみなっ』

『あっ、あっちに行ったよっ。追い掛けなっ』


 と、ばかりにステップを踏み、私から逃げる二匹。けれど決して離れ過ぎず、絶妙な距離感を保ったまま、前足やお尻をふりふりしてる。そんなお誘いに、私も答える。


 気付けば、他の子カンガルー達も集まってきて、皆で追いかけっこをしてた。



 走りながら、私の口角は自ずと持ち上がってく。さっきまでの不安な気持ちも、いつの間にか静まってた。明るくなったような、開けたような視界に、心が軽くなる。




 どうにかやっていけそうだ。


 いつかが訪れる、その日まで。




「負けるかこの野郎ぉぉぉーっ!」



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