第3話 取引
「なんですの、あの男は」
灯した燭台を手に長廊を抜けて、ユヅルは直立不動の衛兵に特別許可証を見せる。
木扉がきしみを上げて閉まり、いっそう暗い別塔のらせん階段を上る。
最上階の円い部屋の大窓から差し込む月明かりが、寄せ木の床を淡く照らして。
吊り下がる大燭台に火を移すと、金刺繍の
「すばらしい眺めですわ」
手を引かれ、大窓へ。眼下に黒い森がひろがり、目線を上げると天空に切り立つ鈍色の岩山。
「この城は断崖に建ってるのかー」
「ユヅルさまは、おつむがよくていらっしゃるのね」
明朝に尽きる運命にせかされて、ユヅルは背後から抱きしめた。
「ユヅルさま、どこにもわたくしは逃げません——」
ユヅルは、強引に彼女を寝台へ引きずった。
体をあずけて、純白の敷布に押し倒す。
手のひらにやわらかい感触、喉元に冷たい一筋。
「ユヅルさま、落ち着いてくださいまし」
ゆっくりと体を離して、ユヅルは喉に手をやった。
うっすらと血がついて、両手をひろげる。
「話が違うじゃないか」
「なにもなさない殿方に、さしあげるものなどありません」
そうだと思ったよ、こうなるなら地味子にしておけば——ユヅルは
体を起こしたアニュレは、鼻先に顔を近づけて、
「ユヅルさま、取引をしましょう」
「はぁ? 僕には何もないぞ」
アニュレは、ユヅルの胸をまさぐる。
「ありますわ、あなたの命」
どのみち死ぬしかないのかよ、ふざけんな——ユヅルは、細い手首をつかむ。
転瞬、寝台から転げ落ちた。
「ユヅルさま、自暴自棄はいけません。話を聞いてくださいまし」
「いやだ。どうせ何やっても死ぬんだろ」
「わたくしも命がけです。すべて終われば、身も心もあなたに差し上げますわ」
ユヅルは、むくりと体を起こした。
「本当だな」
コクリとうなずいて、アニュレは頬を染めた。
「僕は何をすればいい」
「寝台の下にある、袋を取ってくださいまし」
床に張り付いて、ユヅルは手をのばした。
麻袋の口を開け、アニュレはボロボロの一冊を取り出す。
「禁書の写本ですの」
寝台の端で肩を並べ、アニュレは頁をめくる。
「爆裂魔法の初級の下ですわ」
異形の小さな文字がびっしりと——。
「えっと、どこからどこまで?」
「まるまる一頁ですの」
「いや、無理」
「わたくしが、読み方を教えてさしあげますわ」
「そうじゃなくて、長い詠唱が終わって、運良く発動しても、次を唱える前に、襲われるだろ」
「隠れて次を撃つか、逃げ切れば問題ありません」
「逃げるって……僕はこの世界を何も知らないのに——」
「ごちゃごちゃうるさいですの。男なら、細かいことにこだわってはいけません。あなたは、爆裂魔法を撃ちまくって、城を混乱させればよいのです」
「まて、君は何をするつもりなんだ?」
「あなたが知る必要はありません」
「だとしても、僕が予想外の何かを破壊したら困るんだろ」
アニュレは、吐息をついた。
「時間がありません。わたくしの目をみてくださいまし」
不意に唇を奪われたまま、ユヅルは鋭い
監獄塔に消えた囚われの主は天使のような美貌、しかしその異形は——呪いを解くため、最強の爆裂魔法使いの力を——。
アニュレは、ゆっくりと唇を離した。
「おわかりになりまして?」
「よく、わかった。報酬は姫さまがいい。というか、それしかない」
「それは、無理でございます。殿下は、わたくしのものではありません」
「じゃ、やめた」
ユヅルは、寝台に背を投げた。
飛びかかり、アニュレは喉元にナイフを突きつける。
「ここで死ぬか、生きるかを選んでくださいまし」
「僕を殺したら、何も手に入らないぞ」
「次がありますわ」
「アイツがくる」
ナイフを預けて、アニュレは寝台を下りた。
「ユヅルくーん、飯をもってきたぞ」
「ごくろうさま、そこへお願いしますわ」
ソウタと取り巻きの男は、山盛りの肉皿に白パンの詰まった籠を小さな円卓に置いて、
「さあー、パーティーの時間だぜー」
飛びかかってきたソウタを、アニュレは鋭く回し蹴り。
床に叩き落とされたソウタは、ふらふらと立ち上がる。
「くそが、ふざけんなー」
鋭く踏み込んで、アニュレはひねった拳を腹に撃ち込んだ。膝をついたソウタの顔に膝蹴り。
万歳でひっくり返ったソウタは、ぴくりともせず。
「そこのあなた、覚悟はありまして?」
「あ、いや、お食事をもってきただけなんで、はい」
「でしたら、この生ゴミを持ち帰ってくださる?」
「はい、よろこんで」
気絶した体が階下へ消えて、アニュレは軽やかに体ごと振り向いた。
なびいた砂色の髪が、淡くきらめく。
「体をほぐしたら、おなかがペコペコですの」
ナイフを手放して、ユヅルは立ち上がった。血赤の瞳、人間離れした速さで悟る。今の僕に選択肢はない、彼女はヤルといったらヤル。
微笑む彼女へ、両手を差し出した。
「さっきの話だけど、やっぱり君がいいな。かわいくて強いし、それに優しい」
「うれしいですの」
アニュレは、胸に飛び込む。
かかとを浮かし、唇を重ねた。
「ひとつ約束ですよ、浮気は絶対にゆるしませんから」
「えっ?」
「いまここで、誓ってくださいまし」
「あー、ほら、冷めないうちに、食べよ」
「ユヅルさまの、いじわる」
ユヅルは、ぷくっと頬が膨れる彼女の手を取る。からみつく指先に、覚悟を決めた。絶対に、生きてここから脱出する。
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