第12話 文月栞と梅雨の図書室。

 六月、梅雨の日の放課後。

 水無月みなづきもそろそろ終わりが近いが、梅雨明けまではまだまだ遠い。

 図書室は雨を嫌う生徒が早めに帰宅しているためか、人は全くいない。

 にもかかわらず、図書委員である私――文月ふみづきしおりと、同じく図書委員の曽根崎そねざき逢瀬おうせは図書室の貸し出し受付で座り続けなければならないというのも酷な話ではある。

 曽根崎の周りに女子がたからないのも珍しいが、ここ最近めっきり曽根崎の周りに女子が寄り付かなくなった気がする。

 曽根崎が何度も「栞ちゃんにしか興味ない」と喧伝けんでんしているのもあるだろう。おかげさまで私は女子連中ににらまれる日々である。本当にありがとうございました迷惑です。

「雨は嫌だねえ」

 ポツリと、曽根崎が口を開く。図書委員のふたりと、奥の部屋に司書教諭がいるだけの図書室は静寂が重い。それに耐えきれず、お喋りにきょうじようということだろう。

「そうですね、本にカビでも生えたら嫌ですし」

 まあ、私も暇なので、その雑談に乗ってやる。

「栞ちゃんは本当に本が好きなんだね」

 曽根崎は目を細めて優しく微笑む。……サラサラ黒髪の美少年には微笑みが似合う。

 いや、落ち着け、正気に戻れ文月栞。私には猫春ねこはるがいるしそもそもコイツはクソストーカー野郎である。

「おばあちゃんとの、思い出ですから」

 自分の思考を表に出さないよう最大限の努力をしながら、私は言葉を絞り出す。

「……あーあ、今日は帰りたくないなあ」

 不意に曽根崎が頭の後ろで指を組んで背中をそらす。座っている椅子がギシッときしむ音がする。

「そうですか? 私はもう帰りたいですけど」

「えっ、なんで?」

 私の言葉に、曽根崎は意外そうな声を出して身を乗り出す。コイツはいちいち顔が近い。人との距離感測れないタイプか?

「なんでって……図書室、どうせもう誰も来ませんし、帰宅時間になったらどのみち学校から追い出されるんですから、雨が降ってるなら明るいうちに帰りたいでしょう」

 それとも、コイツは学校に泊まりたいんだろうか? 変人だな。

「……俺は、ずっとこのまま、栞ちゃんとふたりきりでいられたらなって、思ったんだけど……」

 曽根崎の目尻が、若干赤くなる。

 それを私は、冷めた目で眺める。

「下心が透けて見えてますね」

「その言い方はあまりにもひどい!」

 曽根崎は本気で落ち込んだ様子で、ドン……と力なく受付の机を拳で叩く。

「だいたい、私にはお付き合いしている相手がいることをお忘れですか?」

「だーかーらー、中島なかじまとは別れてってば~」

「嫌です」

「なんでそんなかたくななの……」

 駄々をこねたかと思えば、すねた様子でジトッと私を上目遣いで睨む。

 曽根崎は色彩豊かな表情の変化でこちらを揺さぶってくる。

 ……なんでこんなに懐かれているのかが、こちらには理解できないのだが。

「あそこまで私と趣味と知能レベルが合う相手なんてそうそう巡り会えませんよ」

 猫春は地味でクラスの空気になりがちな男の子だが、それこそ私自身が求めていた私の教室でのり方であった。……まあ、それも曽根崎のせいで叶わぬ夢となったのだが。

 猫春とは読む本の系統が似ていて、よく話が合う。知識も豊富で、それなりに本を読んできた私でも勉強になることは多々あり、また逆に私が知識を与えることもあった。持ちつ持たれつ、私たちはウマがあった。女子との競争率が低いのもいい。やたらモテる曽根崎と違って、猫春と付き合ってもねたむ女なんていない。気が楽ではあった。

「俺だって、学校の成績はいいんだからな!」

「一年生をもう一度やり直してるんだから当たり前です」

 なにを自慢気にしているんだか。そもそも一年生を留年しているという事実が痛すぎる。しかも私と一緒に卒業したいからとかいう理由も痛い。

「それに、俺だって読書くらいする!」

 ――それは、ちょっと初耳だな。興味が若干湧いた。

「ほう、どんな本をお読みに?」

「漫画」

「……」

「アッ、待って、最後まで話を聞いて」

 私がよほどドン引きした顔をしていたのか、曽根崎は慌てた声を出す。なんで私なんかにこんなに必死になってんだろ、コイツ。

「実は栞ちゃんの好きな小説のコミカライズ持ってるんだけど」

「コミカライズ?」

 聞き慣れない単語にほんの少し興味がかれた。

「小説を漫画にしたものだよ。文字だけの情報が絵もついたらお得感あって嬉しくない?」

「一気に興味がわきました。今度貸してください」

 ほう。小説を漫画に。ほう。興味深い。

「でもいっぱいあるから一度にたくさんは貸せないでしょ? 俺の家に来ない?」

「行きます」

 即答。

 こうして私は、曽根崎の巧みな話術によって、まんまと曽根崎の家に行くことになったのであった。


 曽根崎家・曽根崎の部屋。

 いま私は、曽根崎とベッドの端に並んで座っている。

 あとから思うとストーカー男と部屋に二人きり、しかもベッドに座るとか危険極まりない行為だったのだが、私の注意はコミカライズなるものに完全に集中していた。みんなは気をつけようね。

「これがコミカライズですか、小説では挿絵さしえがなかったので人物の容姿は想像するしかありませんでしたが、この漫画家さんはこういう解釈をしたんですね」

「よくわかんないけど喜んでもらえて嬉しいな」

 曽根崎がそう言うくらいなのだから、きっと私の目は輝いていたのだろう。

「……」

 ここから私は読書にのめり込み、周りが目に入らなくなる悪い癖が出てくる。

「……ふたりきりだね、栞ちゃん」

「……」

「図書室でもふたりきりだったけど、今は俺の部屋に栞ちゃんが……はぁ、夢みたい……」

「……」

「ねえ、男の部屋に女の子が来たら、することはひとつだよね……?」

「ええい、黙らっしゃい! 今読んでるでしょうが! 気が散る!」

「ええええええええごめんなさい!」

 せっかく読書の世界に浸りきっているのに頻繁に話しかけられたら誰だって怒る。私だって怒る。

「……」

「……」

 漫画の世界に戻った私を、曽根崎は犬のようにじっと見ている。

「……」

「……ねえ、栞ちゃん。……寂しい」

 鬱陶しいな、と曽根崎を見やると、奴は本当に犬のようにシュン……とこちらを見つめていた。

「曽根崎くんも何か読めばいいでしょう。もしくはそのへんで寝ていたらいかがですか? 読み終わったら勝手に帰りますので」

 そういえば今何時なんだろう。今日は一日雨だというし、暗くなる前に帰りたい。しかしページをめくる手が止まらない……。

「せっかくベッドあるしさあ、一緒に寝たいなあ……?」

 すすす、と曽根崎の顔が近づいてきたと思うと、私の視点が天井へとひっくり返る。

 ――曽根崎に、ベッドの上に押し倒されていた。

 まずい。これはまずい。

「ちょ……っ! この!」

 私は的確に曽根崎の股間を膝蹴りした。

「――ッ!!」

 曽根崎は声も出せずに悶絶もんぜつする。

「ナメたことしてくれてんじゃねえぞボケナス」

 私はペッ、とつばでも吐き捨てたい気分だった。

 結局コイツはこれが目的で私を家に誘い込んだわけだ。

 私の好きな、本をえさにして。

「栞ちゃんのせいで不能になっちゃうぅ……」

 勝手になってろ。

「もう暗くなるし帰るわ。あとこの漫画借りてくぞ。じゃあな」

「あぁっ、ドライな栞ちゃんかっこいい……」

 こうして私は無事に家路いえじについた。

 猫春に申し開きするようなことは何もなかった。何もなかった。いいね?


〈続く〉

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