第56話 消えた姿

「大変そうだねぇ」


 他人事のように隣でミヤが言った。

 くあぁと欠伸して体を丸め、暇を持て余している。


「……猫の手も借りたいくらいだよ」


 そう呟き、一息入れようと椅子から立ち上がった。


 窓辺に歩み寄って眺めるのは、四階からの景色。

 屋根の合間に見える海の色が、塔の上に閉じこもっていた少女の髪を思い出させた。


「でもほんっと、申し訳ないことしちゃったなぁ……」

「タグルのこと?」


 軽く首肯して自嘲的に笑う。


 ぬか喜びさせてしまっただろう。

 私は希望を見せておきながら、結局何もできなかった。


「大丈夫だよ、あの子は。きっと自分でお母さんの呪いを解くよ」


 ミヤはどこか言い聞かせるように零し、前足で額を撫でた。

「そうだね」と吐いた心はまだ後ろ向きで、自分の未熟を突き付けられる。


 あの日対峙した、彼女の決意に満ち溢れた瞳が忘れられなかった。


 私が立てた仮説が果たして正しかったのかは分からない。

 それでも真実は彼女が見つけてくれるだろう。


「私も頑張らなくちゃね」


 窓に向かって口角を上げる。 

 反射する白い少女の顔は、少しだけ明るく見えた。



 昨日の帰り道の『もっと頭を使え』というルノイの言葉を受けて、実験するのはやめることにした。

 今朝からはギーナから借りた大量の本を、辞書を片手に読み漁っている。

 

 今やるべきことは知識を蓄えることだ。

 魔法のことや呪術のこと、とりわけ生命魔法のこと。

 私はまだ、知らないことが多すぎる。


 ゲーム感覚で受け入れていた異世界は、ただの現実だった。

 これから先、想像もできないような人生が待っているのだろう。

 生きる術を持たなければ。

 そのためにも、知識は増やした方がいい。


 久しぶりに『敵を知り己を知れば百戦危うからず』とことあるごとに繰り返していたハゲ眼鏡の世界史教師が脳裏に浮かんだ。

 そういえばあの先生は確か妹の担任だったはずだ。


「雨……元気にしてるといいけど……」


 何を言っても意味はないのだろうが、2LDKの部屋は一人で生活するには少し広すぎるように思える。


 昼下がりの青空が眩しくて伏せた目に、ちょうど入港してきた大型の客船がまるで一枚の絵のごとく映った。




 カランコロン


 しばらくぼんやりと外を見ていると、下の方で鐘が鳴った。

 店に誰か来たようだ。


 四階なのに聞こえることを疑問に思い先程ギーナに尋ねると、客の出入りを知らせる魔道具なのだという。

 利便性に感心しつつ裏口の有無を確認したところ、そんなものは金持ちの家でもない限り存在しないのだとか。

 微妙に不便な気もする。


「帰ってきたのかな」


 ルノイもギーナも用事があると言ってそれぞれ出かけたばかりだ。

 それにしては早すぎる気がする。

 忘れ物でもしたのだろうか。


「お客さんかもよ?」

「まあもしそうでも、出なくていいって言われてるからね。大丈夫大丈夫」


 ミヤの眠そうな問いかけに答え、机に戻って再び本に目を落とす。

 ぬるくなり始めた紅茶に口をつけながら、私は読書を続けた。






 日の当たらない路地裏を、小柄な人影が駆け抜ける。

 その速さは尋常ではない。

 鼠色に染められたマントをなびかせ、入り組んだ道のりを迷いなく進んでいく。


 風のように走る姿は右へ左へと角を曲がり、ある店の前でようやく足を止めた。


 カランコロン


 両開き戸は耳障りのいい音を奏で、来訪者を迎え入れた。

 しかし人の気配はなく、しんと静まり返った店内は胸をざわつかせる。


「…………ッ」


 彼は肩で息をしながら中央に据えられた円卓の反対側へ回った。

 森を抜けたせいで体のあちこちから葉や枝が落ちるが、そんなことを気にする余裕はない。


 嫌な想像が鼓動を速める。

 苔色の扉を開け、乾いた喉の奥で唾を飲み込んだ。

 階段を上り、一つ一つの部屋を覗いていく。


「本当に誰も……いないのか……?」


 二階にも三階にも、赤髪の魔女の姿はなかった。

 その無愛想な弟子の姿もなかった。


 嫌な想像が、想像ではなくなっていく。

 彼は階段を上り切り、最後の扉に手をかけた。


「ハル――――」


 呼びかけたその先に、彼女はいなかった。


 開け放たれた窓から吹く風が萌黄色の前髪を揺らす。

 卓上に置かれた本のページがめくれる横で、飲みかけの紅茶はすっかり冷めてしまっていた。

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