第51話 雨と由宇
電車に揺られること20分。
降車駅手前のアナウンスに叩き起こされ、あたしは慌てて膝の上の学生鞄を抱き寄せた。
危ない危ない。
また乗り過ごすところだった。
慣性の法則に従って傾く体を根気で踏ん張らせてから、かかとの磨り減ったローファーに力を込める。
電子音とともに開いたドアをスルリと抜け、混み合う朝のホームに勢いよく突っ込むと、マスクのせいで眼鏡が白く曇った。
制服のポケットから定期を取り出して改札を通り、通学路を進む。
ちらほらと見える同じような後ろ姿に遅刻を気にした様子はない。
無言で歩くスーツの群れの間で、「おはよ!」「今日寒くね?」などと言葉を交わしている。
手の中のスマホを見れば、まだ8時前だった。
顔を上げ、交差点の信号が赤に変わったことに気づいた。
あの日の記憶がフラッシュバックする。
それを振り払うように、左側に立つ電柱に括り付けられた縦に長い板に目を向けた。
『6月20日午前7時ごろ、 女子高校生がトラックに轢かれる事故がありました。目撃した方は警察までーー』
無機質な白い看板を忌々しく睨め付け青信号に進み出した人の流れに紛れる。
眼鏡の黒縁の内側で自分の目が耐え難いほどに乾燥していたことにやっと気づき、瞬くと共に水分が過剰に分泌された。
これは涙なんかじゃない。
どこかの誰かに心の中で弁解しながら、雲一つない冬の空を睨んだ。
「…………泣くな、あたし」
ペチンと両手で頬を打ち鳴らす。
深呼吸と共に入れ直した気合いを大袈裟に掲げてから、緩い登り坂の上の校門を抜けた。
「おはよ」
目線の高さの下駄箱にローファーを突っ込むのと同時に、背後から声をかけられる。
振り返るとそこには、整った顔立ちの幼馴染が立っていた。
黒い癖毛は右側だけ跳ね、少し吊り上がった丸い瞳が頭一つ分低い位置にあるあたしの顔を見下ろす。
「……おはよ、由宇」
返した声は思ったよりぶっきらぼうで、慌てて「今日寒いね」と付け足した。
由宇はさして気にする様子もなく「そうだな」と肯定すると踵を返して歩き始める。
なんとなく隣に並び、フル装備の顔面で右斜め上を窺った。
「そういえば、今朝変な夢見たんだよね」
「へぇ、どんな夢?」
「大きな白い鳥が飛んでる夢」
「なんだそりゃ」
「だから変な夢って言ったじゃん」
苦笑しながら見上げると、由宇も無愛想ながら笑いを返す。
どこか後ろめたさを感じつつもあたしは平和な空気感に甘えた。
「え、それだけ?」
「え、うん、それだけ。……由宇は見た? 夢」
笑って問いかける。
由宇は少し考えるそぶりを見せた後、「覚えてない」と後頭部を右手で掻いた。
「あ、でも昨日はなんか懐かしい夢見た」
「懐かしい夢?」
「小5の夏休みにさ、皆で秘密基地作ったじゃん。あん時の夢」
仲の良かった五人組。
秘密基地と言っても、近所の空き家の庭にこっそり忍び込んでビニールシートで作ったショボいテントだ。
それでもとても楽しかったし、今でもその思い出は鮮やかなままである。
「うわ懐かし。昴とか奏汰とか、最近全然会ってないよね。元気かなぁ」
「奏汰はこの前会ったぞ。相変わらず背が低くて色が白かった」
「そういえばあいつ女子より色白だったよね……」
終着点もなく続く他愛もない会話。
階段を上り二階の床を踏んだあたりで、不意にそれは途切れた。
高い位置にある由宇の顔に視線を向けると、彼は深刻そうな顔でこちらを見ている。
「なぁ、雨」
「ん? 何?」
「まだ……見つかってないのか?」
「………………っ……う、うん、まだ……」
咄嗟に言葉が出ずに、あたしはワンテンポ遅れて答えを返した。
問われたのは自分の身代わりに事故に遭ったはずなのに、遺体どころか指の骨一本も見つからなかった姉の行方。
最愛の姉が跡形もなく消えてから、既に半年が過ぎていた。
警察には行方不明の届け出をした。
でも状況が状況だ。
トラックは居眠り運転だったらしく、前方を見ていなかった運転手は『人を轢いた感じはなかった』と証言した。
早朝だったためか目撃者は自分しかおらず、『事故の直後に消えた』と何度言っても、そんなことあるはずがないと結局取り合ってもらえなかった。
叔父も叔母も一応姉を心配していたが、体裁を保つためだということは目に見えていた。
学校では生徒会長を務めていた姉を知らない者はいなかった。
高嶺の花と呼ばれ、しかし当の本人はそれに気づくことなく頼まれた仕事を笑顔で受ける。
成績優秀、容姿端麗、求心力があって人望に厚い。
たった一人の、自慢の姉だった。
そのため当時彼女の友人の多くは心から姉の行方を案じていた。
が、さすがに半年も経つと忘れられたのか、あまり話題にも上らなくなっている。
今でも気にかけているのは由宇くらいだ。
薄情な世界に文句を言ってやりたくなった。
「そうか。……まああいつのことだから、そのうちひょっこり帰ってくるだろ」
「そう、だね」
「どうせまた誰かにお節介でも焼いてるんだろうな。寄り道が多すぎるんだよな、あいつは。全然関係ないのに手伝ったりとかしてさ。ったく、まず自分のことを気にしろって話……おい、どうかしたか?」
軽く首を捻り、由宇は私の顔を覗き込んだ。
鏡を見なくても分かる。
あたし今、酷い顔だ。
「…………別に」
「じゃあなんで急にそんなに機嫌悪くなるんだよ」
「………………」
流れる沈黙。
耐え切れずに機嫌悪くなんかないし、と小声でごねると由宇は「んな訳ねーだろ」と言ってため息をついた。
「言いたくなきゃいいよ、言わなくて」
困ったように呟き、あたしを置いてさっさと歩みを進める。
少しずつ遠ざかる学ランの後ろ姿にじんわりと視界が滲んだ。
分かっているんだ、人生なんて思い通りにいかないってことくらい。
握り締めた拳の中で爪が
込み上げてくるものは少なくとも怒りではない。
しかし行き場をなくした想いを封じることなど、姉を失っていっぱいいっぱいの自分にはできようはずもなかった。
「……………………で……」
「……ん? なんか言ったか?」
「……なんで晴のことばっかりなの……ッ!!」
突然上げられた金切り声に、廊下はしんと静まり返る。
朝の騒めきは遠巻きに中央を眺め、何が起こったのかと固唾を飲んで成り行きを見守っていた。
中央には黒髪で背の高い男子と明るい茶髪の眼鏡&マスク女子。
あたしはヒステリックに叫んでしまったことにようやく気づき、周りの視線から逃げるように湿度の低い廊下を疾走した。
もはや痛いのは心臓だけではなかった。
全身が張り裂けそうで、涙が止まらない。
無力のくせに、感情的で向こう見ず。
いつだってそうだ。
己の片割れが消えたのだって、自分以外の誰のせいでもない。
全てが嫌で堪らなかった。
大好きだった姉も、その姉のことが好きな
儘ならない世界のなんと虚しいことか。
幼稚な思考だと頭では分かっていても、止めどなく溢れる涙は言うことを聞かない。
廊下を走り、階段を一つ飛ばしで駆け上がり、辿り着いたのは屋上だった。
冷たい空気が鼻先を掠める。
四階建ての校舎の周りには遮るものは何一つなくて、近すぎず遠すぎずの距離に立ち並ぶ鈍色の長方体が青空を支えていた。
背負っていた荷物をその場に投げ捨て、マスクも伊達眼鏡も取り払って、あたしは胸下の高さまである金属製の柵に駆け寄った。
色素の薄い髪が向かい風に
「なんでよ……っ」
声にならない声が喉奥から漏れる。
『雨』
自分の名前を呼ぶ姉の笑顔が頭の中で反芻し、胸が締め付けられるようだった。
「なんであたしなんかを庇ったの……」
嗚咽と共に吐いた言葉は白い
手を乗せた落下防止の柵はひんやりと冷たい。
ふと思い出して、赤くなった指先でポケットを
「……雨」
少し離れたところから、あたしを心配する声が聞こえた。
振り返らなくても分かる。
聞き慣れた由宇の声だ。
「大丈夫か? 無理してるなら……」
「そういうんじゃない」
遮るように口に出した言葉は自分でもびっくりするほど冷淡だった。
事故から時が経つにつれ、あたしはこのまま姉が戻らなければと考えるようになっていた。
彼女さえいなければ、由宇の想いは叶わない。
勿論そう考える自分を心から軽蔑していたし、姉が無事でいて欲しいという気持ちも本物だ。
……だからこそ。
死界で近づく足音に、はっきりと聞こえるように言った。
「……いなくなるなら、あたしがいなくなればよかった」
「そんなこと……」
「由宇だってそう思ってるんでしょ!? なんであたしじゃなくて晴なんだって!! 晴も晴よ!! あたしを助けたせいで自分が消えちゃうなんてバッカみたい!!」
「おい、雨!! いくらなんでもそれは言っちゃいけないやつだろ!?」
あたしは斜め後ろに辿り着いた由宇の顔をキッと睨み、いきり立って右手を振り上げた。
「こんなもの……ッ!!」
「おい……!?」
慌てて由宇はあたしを抑えにかかった。
後ろから捕らえられた手は中身を持ったまま止まる。
しかし体温に温められた小さな巾着袋は由宇の手を逃れようとするあたしに弾かれて宙を舞った。
放物線を描きながら落ちようとする縮緬の桜が、澄み渡った青い空に映えていた。
その光景は、まるでスローモーションのようだった。
ガンッ
突然、鈍い金属音が響いた。
驚いて隣を見ると、由宇が柵に片足をかけて腕を伸ばしていた。
間一髪のところで指先が巾着袋に届き、彼の顔に安堵の表情が浮かぶのが見えた。
その時だった。
「由宇………………ッ!?」
叫んだあたしの声に気づき、由宇は足元に視線を送った。
そこに柵はなかった。
由宇の身体が空中に投げ出された。
反転し、背中から落下を始める。
「待って……………………!!」
また自分のせいで誰かがいなくなるなんて、耐えられなかった。
朝日の逆光の中で勢いよく柵から身を乗り出す。
右手に由宇、左手に柵を掴むが、男子高校生を支えられる程の筋力はあたしにはない。
柵を越えた身体は重力に抗えずに、そこから離れた。
白塗りの校舎を糸に引かれているかのように真っ直ぐ落ちていく。
ゆっくりと迫る地面を前に、あたしは覚悟を決めて目を閉じた。
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