第36話 お泊まり決定

「……ということでしばらくの間、夫人のお部屋に通わせていただきたいのですが」


 マニセラン辺境伯・ボルボの書斎に向かい事情を説明すると、昨日の陰湿な笑みは何処へやら、彼は悪人顔を緩めて爽やかに微笑んだ。


「勿論構わない。幾人にも匙を投げられてしまって、もう諦めるべきかと悩んでいたところ。こちらとしても、ありがたいことだ。どうか妻のことを、よろしく頼む」


 しまいには軽くだが頭も下げてしまった。


 いいのか辺境伯。

 お貴族様なんじゃなかったのか。


 ていうか絶対昨日と別人だ。

 強面の筋肉オジサンが普通の発言をするとかなり優しい印象を受ける。

 ギャップってやつか。萌えはしないけど。


「御協力いただきありがとうございます、ボルボ様。それから失礼を承知で申し上げますが、もしよろしければマニセリルからこちらまでの馬車での送迎をお願いしたく存じます」


 凍りつく両サイドの狩人たちを完全無視して強気にそう述べる。


 ここに来る手間は特に惜しまないが、金となれば話は別だ。

 交通費だって馬鹿にならない。

 親分はそこまで金に困っている訳ではなさそうだが彼に頼るのも忍びないし、どうせなら使えるものは使うべきだろう。


 守銭奴と化した思考回路で今後の構想を練り始める。

 私のちまちました発言が何やらお気に召さなかったのか、デカマッチョは少し考えてから豪快に言ってのけた。


「それならいっそ、我が城に泊まればいい。その方がお主にも都合がよかろう。カムト!」

「はい」


 ボルボに呼ばれて応えた低い声が、書斎の棚に同化していた人物の輪郭を切り取った。弾かれたように視線を向けると、ちょうど影の薄い執事らしき男が腹の前で両手を重ねて軽く礼をし終えたところだった。

 ちなみに今彼がとったのは、この国では最もポピュラーな敬礼である。


 品の良いモスグリーンの髪は全て後ろに流され、端の上がった眉毛の下では開ききらない目が人相を悪くしている。

 悪人顔はこの城のアイデンティティか何かか。


「お部屋を三つ、ご準備いたします。後ほどご案内させていただきますので、それまでしばらくお待ちを。食事や衣類はこちらで用意させていただきます。他にも何かご入用でしたら、その都度お声掛けくださいませ」


 執事の口だけが動き、スラスラと言葉が流れる。

 泊まることは確定したのか、というツッコミが喉まで出かけるが、ありがたいので余計なことは言わないでおく。


「……あの、申し訳ないのですが」


 ここまで沈黙を守り続けていた親分が、隣で口を開いた。


 なんだろう。酒をくれ、とか?

 いやいやジルじゃあるまいし。


「泊まるのはこの二人だけでお願いしてもよろしいでしょうか」

「「え」」


 私とシュカは思わず、斜め前から親分を覗き込んだ。


「自分は街の方に所用がありますので、友人宅に世話になろうかと」


 友人というのは恐らくユドのことだろう。

 まあマニセリルにいるなら、親分の力が必要な時に声をかければいい。


 むしろあの人混みを毎日抜ける必要がなくなるというのはありがたい。

 注目を浴びないに越したことはないからな。

 石橋はきちんと叩いておく。


 特に反対する理由もないので、勝手に納得して親分に「了解」と小声で言った。


「では二部屋でよろしいですか」

「ああいえ、もう一人がもうすぐマニセリルの方に着くと思いますので、自分の代わりにその者を二人と共にお願いしたいのです」

「かしこまりました、それでは三部屋のご用意をさせていただきます」

「ありがとうございます」


 さっさと帰れるぞという意思が見え見えの笑顔を撒き散らし、親分が影の薄い執事・カムトに悠々と頭を下げる。

 せめてもうちょっと本音を隠す努力をして欲しい。


「ネスカ様のお部屋に近いところに設けた客間がございますので、後ほどご案内致します。その前に、もしよろしければご昼食をお召し上がりください。シェフが腕によりをかけて、トマトのカッファと、マニセリル名物のジゼットを作っておりますので」


 アナウンスを早送りで聞いているかのようなカムトの言葉に慌てて了承の意を返し、私は料理名らしき単語の端に疑問符を打って脳裏に浮かべた。


 この国で食べた料理はどれも美味しいものだったが、いかんせん名前がいまいち覚えられない。

 発音は恐らく彼らの言うそのままを日本語読みに置き換えただけなので分からなくもない。


 しかし日本で聞いた言葉の面影が全くないのだ。

『ポートフ』という料理はポトフというよりパウンドケーキに近い焼き菓子だったし、『ジャグチ』は蛇口ではなく甘くないフレンチトースト的な何かに肉と野菜を挟んだ食べ物だった。


 唯一困ることといえば、包丁はあるが箸やナイフやフォークはないので、手で食べるか匙で掬うかの二択であることだ。

 おかげでほとんどの料理は一口サイズに切り分けておくのが習慣となっているらしい。

 しかし野菜や肉など、食材は知っているものがほとんどなので、食事に関しては私にとって嬉しいことばかりだった。


 恭しく礼をとると、カムトは「こちらへ」と二本の指を揃えて後ろの扉へと促した。

 悪人顔の執事は先頭に立って廊下を進み始める。


 最後に続く私は扉の前で振り返りボルボに軽く会釈すると、置いていかれないように小走りで三人を追いかけた。

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