第25話 身分証
マニセリル中央機関の建物内は、黒いカーペットが全ての床を覆っていた。
行き交う人の足元には似たようなマントだかローブだかの裾がなびき、前を歩く親分に軽く挨拶をする。
親分はかなり顔が広いらしく、ほとんどの人は親分に「久しぶり」と好意的に話しかけた。
時折ルノイを見て「ギーナんとこの坊主じゃねぇか」と言う人もいる。
勿論、ルノイは「ああ」とか「どうも」しか言わなかったが。
その都度立ち止まって会話するので、階段をいくつも上がって目的地に着く頃には、かなりの時間が経過していた。
「……ねぇゲレ、これから私の身分証明書をつくってもらうんだよね?」
ゲレは首肯し、口を開く。
「親分は顔が効くんだ。最初からお偉いさんに取り合っておけば、無駄に他の職員に知られることもないだろ?」
「なるほど」
お役所の偉い人とマブダチとか、親分やっぱ凄いな。
「……ここから先は礼儀があるからハル以外布は取る。シュカ、いいな?」
親分の言葉が
どうやら目的地に着いたらしい。
「はい」と強く答え、シュカは布を解いた。
他のメンバーもそれぞれ髪を覆っていた布を腰紐に挟んだり懐に入れたり、フードの中からは見えないが髪を露わにしたようだ。
「行くぞ」
親分がそう言って、大きな両開きの扉のノブに手をかける。
私は左手で支えるミヤを指先で撫でて、ゴクリと唾を飲んだ。
「……相変わらずいきなりだね、君は」
落ち着いた、それでいて嬉しそうな声。
薄っすら花の香りが鼻をくすぐり、大きめの窓があるのか、部屋の外と色の変わらない床に向かい側から青い光がぼんやりと差している。
「久しいな、ユド」
「君も元気そうで何よりだよ」
「悪いなこんな時に。忙しいんだろ?」
「ああ、気にしなくていい」
親分のなにやら含みのある言葉に声の主は朗笑した。
どういう関係なのかは定かではないが、親しい間柄であろうことは簡単に予想できる。
それほど二人の間を流れる空気は穏やかで、懐古の念を孕んでいるように思えた。
穏やかな声は再び部屋に響いた。
「立ったまま話すのも無粋だ。さ、君たちも掛けてくれ」
ゲレの足は視界から外れ、右側に立っていたシュカのものらしき手が私の背中に添えられた。
従って床と同じ黒のソファーに腰を下ろす。
革張りの座面は、思ったより柔く、座り心地のよいものだった。
「それでロレッカ、今日は一体何の用だい」
訪問を労うように、声は暖かく揺れた。
口ぶりからして、私たち一行が街から半日のところにある山小屋に住んでいることを知っているらしい。
……ちょっと待て、ロレッカってまさか親分の名前か?
「お前に頼みたいことがあってな」
ロレッカ(仮)の悪戯っぽい声が続ける。
「こいつの身分証をつくって欲しい」
フードの外側から視線が刺さる。
一人だけ髪を隠したままの私に、ユドと呼ばれた声の主は怪訝そうに私に声をかけた。
「……すまないが、被り物を外してくれるかい」
他の誰も、何も言わない。
彼らの無言を肯定と捉え、私は立ち上がってフードを取った。
そこには、顔の正面で分けた青い髪を肩まで伸ばした、温厚そうな男がいた。
しっかりとした造りの机の上で両手の指を組み、垂れた細い目を限界まで見開いている。
男は視線の先の少女の長い黒髪に驚き、言葉を詰まらせた。
信頼している相手なのだろう、親分はなぜかドヤ顔でユドに視線を向けている。
シュカは緊張した面持ちで何度も瞬きし、ルノイはいつも通り耳を澄ませ、ゲレは事情を知っているように腕を組み直した。
青髪の男はしばらく動けずにいたが、なんとか気を取り戻して私に改めて座るように言った。
「……まさか黒が本当に実在するなんてね……ええと君は」
「ハルと申します」
「私はマニセリル中央機関総裁のユドという者だ。失礼だが、本名を述べてもらっても?」
「ハル・ソエジマです。真名はありません」
真名とは、出生後に執り行われる儀式で与えられる名前のことだ。
基本的にこの国では名前は『呼名・真名・苗字』の順で表され、正式な場での契約時や目上の相手に求められた時だけ、フルネームを示す習慣があるらしい。
昨日ギーナの店で見せてもらった私の魔力診断によれば、私には真名がない。
そりゃそうだ。
儀式なんてやっていないんだから。
「真名がない……なるほど」
ユドは噛みしめるように私の言葉を反芻する。
「ハル嬢、不躾な質問だが……君はどこの生まれだい?」
その言葉に、心臓がドクンと強く胸を打った。
別に何も焦る必要はないはずなのだが、口の中が渇いていく。
何も言えずに固まっていると、「いや、こんなに可愛らしい女性がこの辺りにいたら小耳に挟んでいるだろうと思ってね」とユドが照れたように頬を掻いた。
ちょっと胡散臭い。
「気にすんな、元からこういう奴だ」
親分が助けに入り、機関のトップに答えた。
「……こいつは三ヶ月前、森で俺たちが保護した。今は山小屋で一緒に暮らしてる。けどよ、身元を証明できるものがなけりゃ色々と都合が悪いだろ」
「ああ、分かっているよ。わざわざ私のところまで来たのは、彼女の髪色だと目立ってしまって危険だからだろう?」
ユドは柔和な笑顔を見せ、私に向き直った。
切れ者だ、この人。
垂れ目の奥が笑ってない。
親分の信頼する相手だから悪い人ではないと思うが、怒らせたら怖そうだ。
何か聞かれても、嘘はつかないでおこう。
しかし予想外にも、ユドはそれ以上は何も質問してこなかった。
親分という保証人がいるからだろうか。
少し考えてから、彼は口を開いた。
「……私の権限では、正式な身分証を出すことはできない。そこで提案なんだが、ロレッカ、彼女を君の養子として登録するのはどうだろうか。本人の同意があれば、君を身元引受け人とした仮の身分証を発行できる」
話によると、未成年は縁者がいない場合両者の同意の上で保護者を登録することが可能なのだという。
これが亡命などで他国からやってきた孤児達を保護するための制度なのだというのは、後から聞いた話だ。
私にとってはかなりありがたい申し出だと思う、うん。
……だけどさ。
「……あの、すみません」
この場にいる全員が、何事かとこちらに視線を向ける。
私は呆れたような、申し訳ないような苦い笑いを浮かべて、もう何度言ったか分からない「私、17です」という台詞を吐いた。
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