第21話 浴室の訪問者

 仄暗い室内に、遠くで聞こえる鳥のさえずり。

 静かな朝を迎える宿屋は、まだ安らかに寝ている宿泊客を見守っている。



 息苦しさを覚えて目を開けると、腹部に黒い毛皮の塊が乗っかっていた。


 そこまで重くはないが、二度寝は厳しい。


 枕元の机の丸い枠の置物を手に取り、首を起こさずに天井にかざした。


 この国では、十二進法が採用されている。

 手の中の時計はよく知っているものと同じ形状をしており、山小屋にはなかったそれを約三ヶ月ぶりに目にした昨日の私は、日本での日々が遠い過去のものだったように感じた。


 一度感傷に浸ると、なかなか止められない。

 私は眠りこける幼い黒猫をそっと脇によけ、上半身をおもむろに起こすと寝台を下りた。


 山小屋から持ってきた白い寝間着はシュカのお下がりで、不恰好に丈の長いポンチョとズボンだ。

 もう小さくて着られないから、と親切に渡してくれたシュカの快い笑顔を思い出す。

 身長差は十センチ程だが、長すぎるズボンは三回も裾を折っている。

 この国の人々は脚が長いという事実を悟った時は、故郷の国の平均くらいの長さしかない自分の脚を呪った。


 壁に掛けられた鏡の奥で、浮腫んだ顔の黒髪の少女がぼんやりと目を合わせる。

 昨日は俯いてばかりだったせいか血色が悪い。

 首も痛いし、髪や瞳を見られてはいけないという緊張感と人混みによる疲れが軽い偏頭痛を起こしている。


「……お風呂入りたい」


 思わず呟いて、私は胸まで伸びた髪を右手で撫でた。

 前髪はフードに隠れるので上げる必要はなかったが、顔を伏せると長い黒髪が左右に要塞を作る。

 昨日はシュカの手作りの朱色のチッタで二本の三つ編みを後ろに纏め、俯いてもフードから零れないようにしていた。

 解いた黒髪には細かい波のような跡が残っており、ついでにいうと額が少しべたつくのも気になる。

 私はもう一度鏡を見、苦く笑って着替えの入った麻袋に手を伸ばした。





 荷物を肩に斜めに掛けてマントを羽織り、部屋を出る。


 昨日夕御飯の膳を片付けにきた従業員が、浴場の場所を教えてくれた。

 確か受付から奥に進んだ焦茶の扉がそうだったはずだ。


 左方に顔を向けると、廊下の突き当たりにある窓から紫に染まり始めた空が見える。

 南向きの窓を背に、私は足音を立てないようにして階段へと進んだ。


 途中で人に会ってもいいように、フードを深く被り直す。

 しかしチッタで留めていない髪は何度耳にかけても前に落ちてくるので、仕方なくマントの中から左手で髪を一つに束ねて抑えた。

 マントの心臓の辺りに肘が突き出て不恰好になったが、気にせずさっさと歩く。


 私は軋む階段に睨みを効かせながら、なんとか一階の床を踏んだ。

 顔を少し上げて周囲の気配を伺うが、まだ誰も起きていないらしい。

 入り口とは反対方向に伸びる廊下の最奥に位置するドアの前まで移動し、目の高さにある金色のプレートに視線を送る。


『女性用浴場』と彫り込まれた文字を確認してから、私はゆっくりとノブを捻った。





 脱衣所は簡素な作りになっており、コインロッカーのような棚が備え付けられていた。勿論木製である。

 縦に四つ、横に五つ並んだ扉から適当に一つ選び、身につけていたものを全て放り込む。

 水の音がしないので、恐らく浴場の方にも誰もいない。

 パタンと扉が閉まる音だけが響き、金属の取っ手が淡く光った。

 慌ててもう一度触れると、簡単に開く。

 何度か開閉を繰り返して、盗難防止用ではないかという結論に至った。

 鍵がいらないとは便利だ。




 浴場の引き戸を開けると、照明が灯った。

 突然眩しくなったので心臓が止まりかけたが、明るくなっただけだと理解する。

 広めの空間は湿度が高く、タイルのようなものが敷き詰められた床や壁は銭湯を思い起こさせた。


 ただ残念なことに、ここにも風呂はなかった。


 シュカによると、この国には『風呂』という概念自体が存在していないらしい。

 山小屋には熱機関もないので、ここ三ヶ月は浴場代わりの地下の一室で、引かれた地下水を頭から被っていた。

 シャンプーのような薬品をゲレが使わせてくれたので不潔感はそこまでないが、シャワーのお湯に慣れた体に冷水はきつい。

 恩人たちに文句を言うのは憚られ、結局今の今まで温水で体を洗う機会に恵まれることはなかった。


 浴場を見渡すと、壁に縦長の鏡が等間隔で並んでいる。

 少し斜めになった地面は中央にある排水口を最低点として一面が青いタイルで覆われ、思ったより清潔でカビはない。

 高い位置にある小窓はどうやらガラスに傾斜がつけられたものであり、換気がしっかりとできているようだ。

 薄っすらと空気の流れを感じる。


 右側の、脱衣所側から2番目の鏡の前に立つと、私はそのすぐ横にあった赤いボタンを押した。


 壁の中からコポコポという音がして、壁の上の無骨な金属製のシャワー口から勢いよく水が出てきた。


「冷たっ………………く、ない……!」


 驚いて仰け反るが、残った膝にかかったのはいい湯加減のお湯だった。

 私は久方ぶりの温水にひとしきり感動してから、その辺にあった瓶入りのシャンプーらしき液体を拝借し、髪と体を丁寧に洗い始めた。

 泡立たない液体から、ほんのりと花の甘い香りが漂う。

 温かいお湯とシャンプーのいい匂いのおかげで、張り詰めていた心が少しほぐれて冷静さが戻ってくる。

 鏡の中の自分と目が合い、黒い瞳が何度か瞬きした。





 そうして心身ともにリラックス状態に入り、私は昨日ギーナに見せてもらった"魔力解析装置シルレイ"について考えを巡らせ始めた。



 まず、自分の名前について。


 ミドルネーム的な部分が空いていた。

 恐らくほとんどの人は下の名前と苗字の他にもう一つのパーツを持っており、私がイレギュラーなのだろう。

 なくても問題はないと信じたい。

 最悪偽名を使おうと決意する。



 次に、その隣にあった『ウォルダの民』という文言について。


 はっきり言って、見たことも聞いたこともない。

 会話の中でも固有名詞はそのままの発音で聞こえるらしく、どこかの地名ではないかと推測する。

 これについては後で調査方法をゲレに相談しよう。




 それから、能力について。


【中枢の魔女】なんて厨二病チックな名前だが、一体何を指しているのだろう。


 この世界でいう『能力』は属性魔法以外の自身の固有の魔法を示している。

 ゲームなどでよく見かける『スキル』のようなものであり、正しい詠唱によって消費魔力量ゼロで能力を解放することができるらしい。

 何度かゲレに説明してもらったが、いまいちよく分かっていない。


 まあいいか。

 使わなくても生きていけそうだし。



 他にも色々と分からないことが多い。

 ゲレやシュカにある程度教えてもらってはいるが、魔法について私は全くの初心者だ。

 若葉マークを背中に貼り付けておいた方がいいかもしれない。


 とりあえず、分からないことは質問しよう。

『敵を知り己を知れば百戦危うからず』と授業の度に口にしていたハゲ眼鏡の世界史教師が脳裏に浮かぶ。



「よしっ」


 頭からお湯を浴びながら、私は気合いを入れ直した。







 脱衣所に戻り、籠に山積みになっていたタオルで水分を拭き取る。


 一通り拭き終わってから服を着ると、長い髪から滴る水に標的を定めてタオルで絞った。

 ドライヤーなどは勿論なく、長いし多い黒髪はなかなか乾かない。

 いつものようにしばらくタオルを当てて乾燥を早めていると、湯冷めしたのか「へくちっ」とくしゃみが出た。


「早く戻ろ……」


 ぼそっと呟いてタオルを肩にかけ、畳んだ寝間着を麻の袋に押し込んだ、その時だった。





 カチャリ





 ドアが開く音がした。


 ……………まずい。


 早朝の誰も起きていないような時刻だからと警戒が散漫になっていた。

 自分の失態に心の中で舌打ちをかますが、もう遅い。



 驚きと焦燥と後悔が激しく胸を打ち、私は息を飲んでゆっくりと振り返った。

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