第12話 歯車は回り始める

 だいぶ朝日も上った頃山小屋に戻ると、ドアの前に立っていたシュカが私に気づき、「ハル!!」と血相を変えて飛んできた。


「どこに行ってたの!? 怪我はない!?」

「うん、ごめん……胸騒ぎがしたから森に入ったら、この子を見つけて」


 腕の中の黒猫を少し持ち上げると、ミヤはくあぁと欠伸をした。


「……黒い……猫?」

「詳しいことは中で話すよ。皆は?」

「ハルを捜しに森に入った。そろそろ戻ってくると思うんだけど」


 その後狩人たちが森の中から姿を現すと、私は一人一人に全力で謝って、皆でテーブルを囲んだ。






「生命力を、直接……」

「そんなの聞いたことねぇぞ。ほんとにこの猫がそう言ったのか?」

「……でも確かに、それならこの猫が黒いのも納得できるな」


 朝ご飯を食べながら今朝の出来事を一通り話すと、7人の兄たちは今朝の事態を口々に議論し始めた。

 聞くところによるとどうやらこの世界には、人はおろか、動物でさえ黒い毛を持つものはいないのだという。


「提案がある」


 ルノイが言った。


「ハルを一度、ギーナに診てもらうのはどうだろう」

「マニセリルまで連れて行くってこと? もし誰かに髪を見られたら、だいぶ危ないんじゃない?」


 声を上げるトーガを制して、ゲレも口を開く。


「自分のことを分かっていた方が、ハルも安心できるだろう。それに、何も1人で行かせようってわけじゃない」

「そういう問題じゃ……」

「おい、お前ら」


 それまで黙っていた親分が、腕組みを解かずに低い声を放つ。

 水を打ったようにシンとした部屋の中で、親分は私を見た。


「……ハル、お前はどうしたい?」

「私、は……」


 膝の上で、ミヤが私を見上げる。



 この3ヶ月間、私は森から先に行ったことはなかった。

 だから、正直に言うと森の外に対する警戒心弱くない。

 しかしシュカやゲレの話を聞いて、彼らが生きるこの世界のことをもっと知りたいと思った自分がいる。

 ミヤと出会って私自身のことをもっと分かりたいと思ったのは、嘘ではないのだ。



『知らない』ということはかなり危険で、恐ろしいことである。

 この先一生ここで過ごせるなんて保証はどこにもない上に、「知らなかった」では済まされないようなことも起きるかもしれない。

 常識さえ満足に持たない状態で生きていくには、世界は広すぎるのだ。

 この世界の部外者であるという認識は警戒心を鋭利にするが、それ以上に無知であることは暗闇にたった一人で放り込まれたかのような恐怖を煽る。

 知らない人々、知らない景色、知らない食べ物。

 その全ては既知ではなく未知であり、たとえ自覚はなくとも異世界で感じる『違和感』はその恐怖の末端として無意識下に積もり積もっていく。

 同調社会の中で生きてきた私にとって、これから先世界そのものに異質なものとして捉えられることは苦痛以外の何物でもないはずだった。



 高い位置にある窓から見える空は果てしなく青い。

 流れ行く雲は高度を保ち、いつか見た白い鳥は自由に舞っている。



 違うものばかりじゃない。

 変わらないものもある。


 だからきっと、きっと生きていける。



 私は強い意思を持って、顔を上げた。


「……迷惑なのは分かってる。けど……行きたい。行って知りたいの、この世界のこと。私のことをちゃんと知って、私にできることを探したい」


 自分でも驚くほど、腹の底から発した言葉は空気を揺らす。

 試すように私を窺っていた親分は満足そうに笑うと、机に手をついて言った。


「……よし、決まりだな。さすがに全員では行けねぇから、俺とハル、ゲレ、ルノイの4人で行くぞ」

「そうと決まったら、さっさと支度しなくちゃっすね! 出発は午後っすか?」

「んな訳ないだろ馬鹿ゼン。早くても明日の朝だ」



「あの……!」



 会話を遮ってシュカが立ち上がったのは、ルノイが冷ややかな目でゼンにツッコミをいれた、ちょうどその時だった。

 全員の視線が一体何事かとシュカに注がれる。


 シュカは真っ直ぐに親分を見据えると、きっぱりと言った。


「親分、お願いです。……俺も一緒に行かせてください」


 その場にいた全員が、呆気にとられた。

 いつも大人しく主張をしないシュカが、今は真剣に親分に頭を下げているのだ。


 それも、街へ行きたいと言って。


「シュカ、お前自分が何言ってるのか分かってんのか!?」

「やめておけ。ハルはともかくお前は……あまりに危険だ」

「そうだよ、シュカが行く理由なんてどこにもないじゃないか」


 ジルとゲレが窘め、トーガも同調する。

 親分とルノイは何かを考え込むように腕を組み、ゼンは首が取れそうなほど頷いていた。



 シュカが街へ行くのを止められているのは、恐らく彼の髪色のことがあるからだろう。

 白髪の人間を迫害するという風潮がある中、人の多いところに行くのは危険だと判断してのこの反応に違いない。


 心配は分かる。

 分かるけど……行くことが確定した私からすると、かなり申し訳ない状況だ。






 長い沈黙の後で、親分はふっと息を吐いた。


「……分かった。シュカ、お前も来い」

「ちょっと、親分!」

「いいのか!?」


 声を上げるトーガとジルはまるっきり無視。

 親分はガバッと顔を上げたシュカに向かって大きく頷いてみせた。


「別にお前が行きたいと言うなら、俺が止める理由はないからな。ただし、絶対に離れるなよ」

「ありがとうございます!!」


 テーブルの向かい側で嬉しそうに笑うシュカを見て、私も微笑を浮かべる。


 それを見て呆れたようにゲレが肩を竦め、食い下がるジルとトーガをなんとか宥め始めた。


「おいゲレ。お前からもなんとか言えよ」

「仕方ないだろ、あの大男が一度言ったことを撤回したことがあるか?」

「でも、親分はもうちょっと慎重になるべきです! この前だって…」

「過ぎたことは気にするな。背が縮むぞ」

「それ関係あります!?」


 一対二の攻防は圧倒的差をつけてゲレが押し切り、それを一瞥したルノイは親分に切れ長の目をやって、表情を変えずに話の流れを戻した。


「……じゃあ、5人で行くってことで。ハル、今日中に支度できるか」

「うん、私は大丈夫」

「念のためにシュカ、お前も手伝ってやれ」

「分かりました」


 テキパキと指示を出すルノイにつまらなそうな顔を向けて、ゼンが大皿を指差した。


「……あの、とりあえず先に朝飯済ませないっすか?」




 いつものようにワイワイ騒ぎながら、ほとんど冷めてしまった朝ご飯を平らげていく。

 私はまだ見ぬ港町マニセリルに思いを馳せ、皿に残った鳥肉を口に運んだ。

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