第10話 呼び声

 目が覚めると、そこには変わりばえのない石造りの天井があった。

 寒さを防ぐために被っていた重い掛け布団を剥ぐと、冷たい空気が体にこたえる。私は立ち上がって、大きく伸びをした。


 今日も、いつもと同じ1日が始まった。






 この世界にきてから、3ヶ月が過ぎた。


 午前中はシュカに、午後はゲレに色々と教わる毎日は変わらない。

 相変わらず私は魔法が使えないままだったが、それでも自分にできることを精一杯やっていた。




「おはよう、ゲレさん、ジルさん! 今日も早いね」


 階段上った先に、地図を挟んで大欠伸をする2人がいるのは、もう見慣れた光景だ。

 最初の頃と違うのは、狩人たちのたっての希望で、彼らに対して敬語を使わなくなったことである。


「おはよう、ハル。今朝は一段と寒いからな、外に出る時はマントを忘れるなよ」

「おうハル、ちょうどよかった。1杯、持ってきてくれねぇか」

「……朝からお酒は出せないよ?」


 項垂れるジルと快活に笑うゲレを横目に壁に掛けられていたマントを羽織ると、私は「顔洗ってくるね」と言い残して山小屋を出た。




 辺りは静寂に包まれ、明るくなり始めたばかりの空はまだ深い紫を湛えている。

 山小屋の高い煙突の先にも朝日は差していないので、勿論小屋の前の井戸の底は真っ暗で見えなかった。


 水を汲み上げて顔を濡らす。

 冷たい水は台所でも得られるが、私は井戸が気に入っている。

 日本じゃ経験できないもんね、こういうの。




 その時だった。



 ふと、誰かに呼ばれている気がして、急いで顎に滴る水を腰紐に挟んだ布で拭うと、私は視線を辺りに巡らせた。


「誰?」


 朝の訪れを待つ樹々のそのずっと奥に目を走らせた瞬間、心臓が強く内側を叩いた。

 何も見えないはずなのに、まるで金縛りにでもあったかのように動けなかった。


 私は不思議な感覚に襲われた。

 行かなくちゃいけないような、誰かに背中を押されているような。

 胸の騒ぎはやがて全身に広がり、細胞の一つ一つが次第に何かの流れに身を委ねる。



 3ヶ月前にここに来て以降、森に入ったことは一度たりともない。

 1人では絶対に入ってはいけないと、私は釘を刺されていた。


 森には魔物がいるのだ。

 そうでなくても、危険な獣がいるかもしれない。


 この世界には、他の動物にも人類のように進化の過程で魔力を魔力のまま保有できるものがいるらしい。

 数はそこまで多くはないが、聞けばどうやらそのような動物たちは魔法が使えるため、魔物として他の動物とは線引かれているのだという。


 狩人たちは皆、口を揃えて「森は危険だ」と言っていた。



 しかし私は躊躇することなく森へと向かった。

 いつの間にか、足は動くようになっていた。


 森が呼んでいる。

 そう思った。



 風ではないものが樹々を揺らし、騒めきは少しずつ明るむ空に比例して大きくなっていく。

 振り返ることなく、足を進めた。


 木々の間を通り、動物たちがなぜか沈黙を守り続ける森の闇の中を歩く。

 やけに静かな森は恐ろしくて、ひたすらに先を急いだ。







 どれだけ奥にやってきただろう。


 背後で陽の光が差し始めた頃、私はやっと歩みを止めた。



 目の前には、月のように白く輝く1匹の猫が血の海に横たわっていた。

 まだ子供なのだろうか、恐る恐る近づいてしゃがみ込むと、私の小さい両手でも軽々と抱き上げられそうなほどの大きさしかない。

 猫は前脚と腹からの出血が酷く、かなり衰弱してはいるものの、辛うじて息をしている。


 急いで腰の布の顔を拭いていない部分を引きちぎり、私はそれを傷口に当てた。

 けれどもすぐに布は赤く染まり、猫の呼吸は弱まっていく。


 何か、この子を助ける方法を考えなければ。


「……そうだ、薬……」


 思い出した。

 随分前だが、ゲレに魔法薬の作り方を教わって、作ったことがある。

 他の魔法は全くなのに、完成した薬はなぜかかなり質の良いものだと、ゲレは驚いていた。


 小屋まで戻る時間はない。

 早くしなければ、手遅れになってしまう。


 私は立ち上がった。


 シュカに聞いた話では、小屋の北東に川があるはずだ。

 他の材料はこの辺りの野草で賄える。

 後は川で水を手に入れさえすればいい。


 その時私は気づいた。

 手元に、水を入れるものがないということに。


 私が作れるのは、飲み薬だけだ。

 この辺りの植物に大ぶりの葉をつけるものはないし、他に器の代わりになりそうなものもない。

 塗り薬が作れればよかったのだが、今となってはもう遅かった。


 死んでいくこの白猫を、助けることができない。

 その事実にただ呆然と膝を折り、ゆっくりと猫に手を触れた。


 私にできることは、傷口を布で抑え続けることだけだった。


「ごめんね……私に魔法が使えたら、死なずに済んだかもしれないのに……」


 悔しさで喉がヒリヒリと灼けて、きつく噛んだ唇からじんわりと鉄の味がする。


 私は涙を堪えながら、元気に駆け回っていたであろう白猫を想像した。

 毛繕いをしながら暖かい陽の光の下で欠伸をする様子が、脳裏に鮮明に浮かぶ。


 せめて痛みがなければいいのにと願いながら、私は目を閉じて手の中の弱まりゆく鼓動を感じた。

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