第15話 賄い猫の気持ち

 「ぺっ」

 唾が賄い猫のヒゲをかすめたのはその時だった。

 「わっ、ばっちい!」

 「化け猫のくせに避けるな!」

 磔の濃紅″が唇を尖らせて文句を言う。


 「黙って聞いていれば最低のケダモノどもね! 飼い主の敵が取りたいなら実行犯の男三匹を仕留めた時点で満足なさい! 元をただせば、そんな連中さえいなけりゃ村長の娘も道を誤ることはなかったのよ! かよわい女性を寄ってたかってノイローゼに追い込むなんて恥知らずな所業はまさに鬼畜だわ!」

 「手負いの同胞を殺した鬼畜以下の女は黙ってろ」

 清丸の口から飛び出した犬顔が濃紅″の顔面に歯形をつけた。


 「復讐を終えてカラスはどうした」

 「警察のジープに乗せられた鈴子を見送った後、この赤岩山で余生を過ごすことにされました。もう人里で生きていくことはできまいと……」

 「すでにおのれは妖怪であると自覚したか」

 「村人も猫には恐怖心を抱いていたので、他の猫が迫害されることがあってはならんと変華寺に籠られたのです。この事件がきっかけに、変華寺へ寄り付く者はいなくなり、いつしか黒猫亭と呼ばれるようになった次第にございます」


 清丸は聞き終えて深く嘆息した。

 「俺も何度か琵琶湖を囲む山を通り過ぎることはあったが、そのような悲喜劇は初耳であった」

 「即行で考えたにしてはよくできているでございましょう」

 「食うぞ貴様」

 一瞬でアムールトラ並みの巨犬に変化、猫の頭にかぶりつかんと牙を剥く。

 「お待ちを! 清丸様をからかうつもりなど毛ほどにも!」

 背中の毛を逆立てて茶縞の猫は飛び退った。


 「このヒゲの数だけ誓います! カラス様が日兆さんという若いお坊さんに飼われていたことも、珠世さんという女性に可愛がられていたことも事実でございます! 単に家柄の違いで二人が結ばれなかっただけなのを、それでは物足りぬという御客人のニーズに合わせて、お涙頂戴物語に脚色したのです!」

 畳に額を擦りつけて前掛け猫は詫びる。必死でぺこぺこする姿が何とも滑稽で、清丸もすぐ怒りの鉾を収めた。

 「よいよい。なかなかに聞きごたえのある話であったぞ」

 「……ありがとうございます」

 繁が汗にまみれたおもてを上げた。


 「カラスが濃紅″の姉に倒されてからも、黒猫の霊威が赤岩山にとどまり、この寺は守られていたのだな」

 「最後まで僕たちのことを考えていてくださいました。幼くして両親を亡くした日兆さんが自分のぶんまで動物たちに愛情を注いでくれたように……」

 繁はそこで言葉を切って、じっと清丸を見つめる。

 「どうした? 言いたいことがあるなら申してみよ」

 賄い猫はもじもじと切り出した。

 「清丸さま、できることなら黒猫亭に腰を落ち着けてくださいませんか。この寺の新しい主になっていただきたいのです」


 「この寺の主だと?」

 想像の埒外の申し出に清丸もつい目を丸くする。

 「俺は犬神だぞ」

 「承知しております」

 「犬に仕えて猫叉の誇りに傷がつかぬか」

 「重症を負ったカラス様は息を引き取る間際、僕にこう言われました。いずれ私の加護も薄まる時がくる。寺を守れるだけの霊格と主にふさわしい風格があると、おまえが見込んだ者が訪れたら、猫であれ犬であれ、黒猫亭の新しい主としてお迎えせよと」


 嘘はついていない。繁の眼は真剣そのものだ。

 「──いいだろう」

 一呼吸置いて、清丸は決意を固めた。

 猫叉は気立てが良く家事能力も高く、僧坊や庭も自分好みだ。

 「俺よければ黒猫亭の主になってやろう」

 「あ、ありがとうございます!」

 繁は体を広げて畳に伏した。まるで敷物みたいだ。


 「来い。賄い料の前払いだ」

 清丸はあぐらをかいて手招きする。

 「え……?」

 「おまえの望みを叶えてやる」

 「僕の望み……」

 「おまえは飼い主の膝に抱かれたかったのだろう。だから人間に化けた俺がやって来るのを待っていた。違うか?」

 「そ、そこまでお察しに……」

 繁は髭をふるわせ、瞳に涙を浮かべた。

 「さあ、猫村」

 「繁です……ご主人さま!」


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