第5話 犬神の逆襲

 (ほう、こやつは青田静馬あおたしずまというのか)

 皮も肉も舐め取って、ピカピカの白骨と化した髑髏を舌で転がす。

 丁寧に眼窩の奥の汁も吸い出して飲む。

 青田静馬──二十四歳、無職独身。

 清丸は食った人間の記憶やその他の情報を体に取り込むことができる。静馬は人目につかぬ場所で縊死を遂げるべく山中へ分け入ったことがわかった。


 彼の人生はひたすら虐げられているばかりだった。気弱で小心で嗜虐真を煽るオーラをまとって生まれてきた天性のいじめられっ子だ。

 学校でも職場でも近所でも、誰もが彼を殴り、蹴飛ばし、汚物を投げつけた。罵倒し嘲笑する人々の顔が清丸の瞼の裏に映し出される。

 これでは世を儚むのも無理はないなと清丸は苦笑した。

 しかしながら、他に選択肢がなかったとはいえ彼を食らったことで魔力が回復したのみならず、絶体絶命の危機を回避できたのは事実。

 一吠えすると妖犬の姿が静馬のものへと変わる。これからはこの男の体を人の世での仮の姿にしようと決めた。


 (礼になるかわからんが、こいつの姿で面白おかしく暮らしてやれば、少しは浮かばれようというものだ)

 昔は人間に飼われていたので多少は人間への情もある。

 (だが、この女は永遠におれの奴隷だ)

 全裸で倒れ伏す少女を見下ろして笑う。

 (手負いの犬に噛まれるのが怖いなら帰れ!)──富嶽の助太刀を振り切り、単独で犬神を追跡してきた濃紅は、新鮮な血肉を食って、より強大な魔力を得た清丸に返り討ちにあったのだ。

 一切の技が通じず、絶望の中を何度も何度も犯されて。


 「生きよ」

 清丸が手をかざすと、はっと濃紅が目をあけた。

 「んんっ? あ、あんたは誰⁉」

 初めて見る青年に赤眼の少女は敵意を向ける。

 「覚えておらぬか。複製といえど母体の記憶まで完全に受け継ぐとは限らぬが、ああも激しく孕まされたのを忘れているのは、ちと興ざめかな」

 「は、はらむ⁉ あんた何言って……あっ⁉」

 そこで自分が裸体であることに気づいて両手で隠せるだけ隠す。


 「なんで裸なのよ⁉ あんたがやったの⁉」

 こういう場合、濃紅は問答無用で男をぶちのめしてきた。

 相手の弁明などに一切耳を傾けず、男を変態呼ばわりし、土下座させて女性様の苦労をもっと配慮し、もっといたわりますと反省文まで書かせた。


 男など二流生物、どれほど優秀であろうとも女から生まれた恩義と原罪を背負っているのだから、見せ場を譲って、嬉々としてドジを踏み、女性には敵いませんなあと道化に徹するべきだ。

 いざというとき女の盾になって命を落とした場合、誉め言葉のひとつもかけてやればよい。消耗品の身に余る光栄であろうとするのが野々宮濃紅の男性観だった。

 取り巻きにおだてられ、そんな自分は格好いいと己惚れていた。

 しかし今、切り株に腰を下ろす男の悠然さはどうだ。


 「そうだ。俺がおまえの衣服を剥いだ」

 「そ、そうだって……」

 濃紅は生まれて初めて男を怖いと思った。こんな男がいてもいいのか。

 自分を堂々と淫らな目で眺め倒す。単純に性的な関心を向けるのとは異質な微笑を浮かべて。

 「な、なんか着るもの貸しなさいよ!」

 「おまえの着物なんざ木の葉でもより合わせておけばよかろう」

 「わたしは蓑虫じゃないっての! あんた、わたしがどこの誰か知ってて、そんな態度とってるの⁉ 馬鹿にするのも程々にしないと後が怖いわよ」


 「悪遮羅流嫡家・猪子山の野々宮濃紅だろう」

 裸身の奥の奥まで見透かす目が少女の心臓を射抜いた。

 男が手を叩く。ボンッと無数の肉片に弾けたかに見えた次の瞬間、フィルムを逆回転させたかのごとく結合して三つの首を持つ斑の大犬へと転じた。

 (や、やっぱりケルベロスは夢じゃなかったんだ……!)

 

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