17BPM

 明日。

 それは当たり前のように繰り返す奇跡。

 

 ふと、頭にこんな言葉が生まれた。

 忘れたわけじゃない。思い出そうとしなかっただけだ。埋もれていたものを掘り起こして、形にしただけだ。

 そんなことを今更するなんて、心底バカだよな、と思う。

 

 窓の外、静かに星が瞬く夜。

 手の中に映った空を突き抜けていくのは、一筋の大きな光。

 嘘みたいだ。夢みたいだ。けれど、そのどちらでもない。

 それが、未だに信じられない。

 

 今、手元にあるもの。

 それがどれだけ大事なものだったか、失くしてから知るのだ。

 俺だって例外ではない。現に、こうして明日を失くしたことに嘆いている。

 生まれておおよそ20年。今まで何をしてきただろう。この世界に、何を残してきただろう。消えない足跡が一つでも、地上に残っているだろうか。

 違う。これから残すところだったんだ。

 三度目の失敗を控えた大学受験。まだ一冊も使い切ってないアイデア帳。書きかけた無数の物語。納得いかない、と破り捨てた女の子の絵。

 次があるから。

 次があるから、やってこれた。

 たくさん産んだ卵を、いずれは孵して、立派に育ててみせると。

 小説家として、あるいは神絵師として、この世に大きな足跡を刻んでみせると。自分で考えたダサいペンネームを知らぬ者はいない、そんな世界を思い描いていた。

 理不尽にも、それは叶わぬ夢となってしまった。

 世界は壊される。俺も一緒に。

 ああ。俺はなんて運が悪いんだろう。何をしたわけでもないのに––––まだ何もしていないのに、こんなひどいやり方で殺されなくてはならない。

 心の底から目の前の映像を呪った。記事に書かれた文字の羅列を呪った。

 この世にやり残したことはありませんか、だってさ。

 たくさんある。あと数十分の時間では到底やりきれないくらい、たくさんある。もう叶わないんだ。やりたくても、やれないんだ。

 こんなの嫌だ。助けてくれ。誰か、これは夢だって教えてくれ。でもここには誰もいない。家を追い出されて住み始めたアパート。家族に見放され、友達もいない、引きこもりが住んでいる暗い部屋。

 学生時代にもっと勉強していれば、ここが友達のいる楽しい部屋に変わったのかもしれない。

 

 ––––今更、後悔したって遅い。

 運がいいうちに、やっておかなかった自分のせいだ。

 今まで積み重ねてきた、そしてこれからも積み重ねていく一日一日が奇跡であること、それをこんなときになって自覚している時点で、俺に成功などなかった。

 所詮、俺は凡人だ。いや、身体的にも精神的にも、それ以下の存在だ。人並み以上にできることより、人並みにもできないことの方がずっと多い、そんな人間だ。

 そう、これが似合ってる。

 自堕落な生を引きずるより、今ここで終止符を打っておいた方がいいだろう。

 

 時間が経ったからか、心は落ち着きを取り戻していた。取り戻すどころか、今までの人生で一番というくらい、冷静になっていた。

 まるで悟りを開いて仏にでもなった気分だ。

 それにしても、本当に嘘みたいだよな。こんな静かな夜に、世界が終わるなんて。信じられない。

 

 ––––最後くらい、外に出るか。

 

 玄関のドアを開けて、俺は道に出た。

 アスファルトの真ん中に寝そべる。どうせ誰も来ないだろうし、これで最後なんだから、何をやってもいいだろう。

 いっぺん、これをやってみたかったのだ。なんだか世界が自分のものになったような気がするから。地球が、俺のベッドだ。

 きっと、みんなも同じことを考えたんだろう。

 ブロック塀が壊されたり、ガラスが割れていたり、建物が傷ついていたりするのは、そのせいだ。日常で抑圧されていた痛みが、外で弾ければこうなる。

 誰もが、あんなものを抱えていた。隣のあの子も、近所のおばさんも、心の中に割れたガラスや、血塗れの包丁とかを飼っていたのだろう。

 

 あちこちで暴動が起こったとか、殺人や犯罪の件数が急増したとか、ニュースにも書いてあった。

 どうせ最後なんだから、何やったっていい。多分、みんながその思考に支配されたんだろう。

 ツイッターでは生きたまま終末を迎えるか、先に睡眠薬か何かで自殺するか、そういうので盛り上がっていたのを思い出す。終わらされるくらいなら、先に自分で終わりたい。そういう理論だろうか。

 一日中惰眠を貪っていた俺が、終末を知ったのはついさっきの事だった。

 もう誰もが終わりを迎える準備を完了した––––あるいは終わった中、俺は今更になってこんなことをしている。

 真冬の夜。外は寒かった。

 体温を求めて、俺は体を縮めた。

 そうするうちに、眠くなってきた。

 

 俺は努めて目を閉じた。

 寝ている間に全てが終わっていれば、怖くない。何も考えずに、頬を撫でる夜風を感じていれば、落ち着いていられる。

 何もかも忘れてしまおう。そして今まで起こった奇跡の三百六十五日、それが何十回、何百回、何千回と続いてきた奇跡、それに感謝を込めて。

 

 オリオン座がよく見える夜。

 終幕には悪くない場面だ、と思った。

 

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