第1章 越境のアジャスト
第1話 遮光世界
その女の姿を目にした時、
闇に閉ざされた洞窟の中、壁面にもたれかかりながら
犯人でもなければ、犯行現場を目撃したわけでもなかった。その死体とは何の関係もなく、あらゆる悲惨な事件などとは無縁の人生を送ってきた。
「どこだよ、ここ……」
死体を見たのは初めてである。
平静ではいられない。
なのに、鼓動はその機能を忘れたように静穏。全身が現実味のない浮遊感に包まれ、現状も相まって夢を見ているとしか思えない。
思考も正常ではなかった。
だが、それ故に近づいてしまったわけではない。
女子供など、死からもっとも遠いところにあると無意識の内に思っていた。守られるべきものであり、どのような場所であってもたった一人で横たわっているはずがない。
それが人気のない場所ともなれば、連想される事情は自然と限られる。
遭難でもしたのか、あるいは殺されてしまったのか――いくらでも悪い想像は浮かんでくる。
頼りない手元の灯りでは、詳しく詳細が分からなかった。知る必要も、関わる理由も何もない。そんなものを直視する度胸もなければ、悪趣味な好奇心だって持っていない。
それに、危険性もある。
死因は分からないが、事故にせよ事件にせよそれを引き起こす「何か」が傍の暗闇に潜んでいたとしてもおかしくはないのだ。
軽率に関わるべきではないことは、理解していた。
しかし、廉太郎は吸い寄せられるように死体の傍まで足を進めた。
置かれている特殊な状況が、正常な判断力を奪っている。あるいは、納得したかったのかもしれない。
未知は恐怖、忌避するよりも理解を求めた方が心を守れる。
そして廉太郎には現状、逃げこむ場所すら用意されていないのだ。
「――酷い」
近づいて観察したことで、より状況を理解してしまった。
その女は完全な致命傷を負っていた。廉太郎と同じくらいの歳の頃の小柄な少女。衣服は造形が分からなくなるほど黒々と血に染まっている。腹部を中心に内臓が破壊され、取り返しのつかない量の血を吐き出していた。
傷の具合や凶器までは一目では分からない。だが、周囲の歪な場景が争いの痕跡を叫ぶように主張している。
何物かに襲われ、そして殺されたのだと。
そんなおぞましい惨状を染め上げる血痕だけが、その場をどうしようもなく飾り立てていた。
「…………」
廉太郎は自分の置かれている状況も忘れ、声も出せず、壊れた人形のようにその場に魅入られていた。
逃げることすら考え出せないほど、ただただ恐ろしい。
複雑に入り組んだ洞窟の中、右も左も分からない。ここはどこなのか、なぜこんな場所に自分はいるのか、これから外には出られるのか――自分の置かれた現状の一切が不明。直前の記憶すら曖昧で、唐突に夢を見ている自分の自意識が覚醒させられてしまったような気分だった。夢だと認識させられたような気分だった。
死んだことにすら気づかない幽霊のように、いつからか暗闇の中に放り込まれていた。
そんな状況下で、初めて目にした人間が殺されている。
気が触れてしまってもおかしくはなかった。
「……新しいんだ、まだ」
腐敗した様子はない。
だから、恐ろしくはあっても嫌悪感は覚えなかった。このまま抱えてやることにも、外まで連れ出してやることにも抵抗がないと思うほどに。
廉太郎はその眼前で膝をつき、彼女の髪へと手を伸ばした。うつむいて隠れたその顔を、一目見たいと思ったのだ。肩で切り揃えられた髪の色は、彩度の低いライトブラウン。
そこだけ汚れ一つなく、場違いなほどに綺麗だった。朽ちた肉体に添えられた花の色のようで、儚い。
伸ばした指の先端が、少女の前髪に触れる。
その時、
「――触らないで」
不意に、か細い声が静寂を破る。
少女は生きていた。
鼓動すら止まっているのではないかと疑うほど微動だにせず、だが一声で廉太郎の動きを制止する。
その思いがけない事態に、廉太郎は驚くことができなかった。
動揺する心の機能がマヒしているのか、生存に安堵してしまったのか、孤独の中話しかけられたことで安らぎを覚えてしまったのか――それは分からない。
「――あっ……え、えぇと……」
それよりも、死体と見間違えたとはいえ断りもなく他人の体に触れようとした
慌てて、眼前まで伸ばした手を引っ込めた。
「……ごめん……その、そんなつもりじゃなくて――」
では、どういうつもりで触れようとしたのか。
これもまた、口にできることではなかった。死体の顔を拝もうとするなど、それはそれで悪質。意味はなく、他人からすれば奇行に映る。そんなことに、今さらながら思い至る。
「……その、死んでるのかと」
適当な言い訳は何も思い浮かばない。それでも黙っているわけにもいかず、勢いのまま口を開く。あふれたのは、自分でもどうかと思うってしまうような言葉。
意図は何一つ伝わらず、誤解さえ生みかねない。
嫌な汗が、冷えた身体を伝う。
「いいえ」
そんな後悔をよそに、少女は気を害した様子はなかった。変わらず少しも動かず顔も見ようとしてこなかったが、不釣り合いなほどの自然体で廉太郎へと言葉を返してくれる。
「これでも生きてはいるのよ。……少し、休んでいただけ」
声は小さかったが、それでも聞き取りやすい声だった。呼吸も乱れておらず、その口調や言動からは弱っている様子すら見当たらない。
怪我の様子と整合性がとれない彼女に廉太郎が混乱していると、彼女は僅かに顔をあげた。目線をわざと下げているのか、表情は見えない。それでも、口元が緩んでいるのがわかった。
「ふふっ……悪かったわね、驚かせて」
それに、廉太郎はわけもなく安心させられていた。孤独と不安が和らぐような、心の中に明るい熱が灯ったようだった。
彼女がほんのわずかでも辛そうな顔を見せていたのなら、とてもそうは思えなかっただろう。
暗闇の中、一人傷を負っていながら出会ったばかりの他人を気遣う余裕すら見せている彼女に、訳も分からず勇気を与えられてしまう。
「えっ、あの……大丈夫なんですか、ほんとに」
その態度に一瞬忘れてしまいそうになるが、とても平然としていられるような負傷ではない。推定される出血の量は素人でも危険と分かるものであったし、すぐにでも病院に担ぎ込まなければいけないのは間違いない。
脳裏をよぎる現実的な問題を前に、心臓は痛いほどに動悸し始めていた。
この場には二人で、他に人はいない。
であれば、自分にはこの瀕死の少女を救命する義務が当然ある。それに気づき、焦燥してしまう。
何か自分にできることはないか――そう尋ねようとしたところで、できることなど何もないことに気づく。
適切な応急処置の知識など持ってはいないし、必要な道具など何もない。携帯端末もディスプレイから光を吐き出しているだけで、圏外で電波も届かない。救急車は呼べない。それも、出口も深さも知らない洞窟のただ中だ。少し背負うことくらいはできたとしても、外へ連れ出せる自信なんて欠片もない。
今の廉太郎は、まったくの無力だった。
――そんな自分に、彼女は助けを求めるに違いない。
それが恐ろしかった。
自分の存在がとても恥ずかしい。失望させる、期待もさせてしまっただろう。
どうせ何もできないのであれば、いっそ初めから関わらなければよかった。見殺しにすることになったとしても、黙って人を呼びに行けるかどうか試みるべきだった。
そんなことを本気で思う。
そうすれば、少なくともこの少女に迷惑なんてかけずに済んだのだから。
なぜ平気そうに振る舞うのかは分からないが、きっといつ死んでもおかしくない。そんな状態の人間に、あってないような薄い望みを抱かせた。
かけてはいけないほどの迷惑をかけたことになる。
そんな耐えがたいほどの申し訳なさに、廉太郎は目を伏せ顔をそむけた。
「大丈夫、かと言われると――」
人知れず震える廉太郎に向けて、少女は口を開いた。そこからわずかに躊躇うような気配を見せたものの、口調はとてもはっきりしていた。
一言一句、違和感さえ覚えるほどに。
「そう、ね……あなたさえよかったら、なのだけれど」
そこから続くであろう言葉に、廉太郎は身構えた。
しかし、実際に発せられた言葉は、想像したものと微妙に異なっていた。
「道案内してくれないかしら、出口まで」
助けを呼んでくれとか、外まで連れて行ってくれだとか。そういったニュアンスを感じ取れない、そんな言葉の選択と口調。
「……え?」
気軽ささえ感じる彼女に、今度は別の意味で返事に困ってしまう。そんな廉太郎に向けて、彼女は続けて語りかけた。
「目が見えないのよ」
言葉を失う。
それ自体はなんら特筆すべきことではない。が、それはその体に負わされた怪我に関係しているのだろうかと勘繰ってしまう。
しかし、それならば目が見えなくなったと言うのが適当であり、顔にも傷があるはずだ。彼女は未だ顔を伏していたが、頭から出血した様子は見られない。
――顔は……見せたくないのかな、やっぱり。
思わず、廉太郎は周囲を見渡す。目が見えない彼女には無関係としてもあまりに暗く、廉太郎が持つ灯りを消せば完全な闇に包まれてしまうような場所だ。それほど寂しく怖ろしい場所に一人、血に濡れて瀕死の少女が目も見えずいる。
とても現実とは思えない。
年下だろうか、それとも年上か。自分とそう変わらないだろうと廉太郎は思った。
まだ子供と言ってもいい年齢の女の子。泣きたくなるほど心細いはずだ。無傷の大人でも、居るだけで気が触れそうな僻地だというのに。
それでも彼女の口ぶりは、助けを請うというよりは手助けを求めるというものだ。それはまるで、街中で道でも尋ねられたときかのように気軽い。
苦痛も、恐怖も、焦燥も見せない。
その様子には、震えるような凄まじさがある。異常なほど不可解で、ともすれば不気味にすら思えてしまうだろう。
「あ、あの……今、俺にできることなら何でもしたいんだけど……分からないんだ、道」
それを口にするには勇気がいった。
廉太郎は、人の頼みごとを断るのが生来苦手だった。断るというより、期待に応えられないという事実が耐えがたい。それは廉太郎の中で、人に迷惑をかけることと同義だったから。
誰にも迷惑をかけてはいけないというのが、廉太郎にとっては何より優先すべき道徳に思える。
だから廉太郎は、そんな彼女の頼みさえ引き受けられないことを死にたくなるほど悔いている。
そんな葛藤など知る由もなく、少女は――
「……まぁ、いいわ。周りは見えているのよね?」
「あ、うん」
手元の携帯端末に目を落とす。光源機能によって強い光を放ってはいたが、この広大な暗闇を照らしきるには頼りない。
表示されているのは圏外の二文字、それから時刻と日付くらいだ。共に、廉太郎が覚えている最後の記憶と大きく離れた日時ではない。それでも、はっきりと断言はできないほど、最後の記憶がどこなのかさえ曖昧であるのだが。
洞窟で気がつく直前、何をしていたのだったか。
登校しようと歩いていたような気もするし、自室で寛いでいたような気もする。
記憶が混乱し、直前まで見ていた夢を思い出しているかのように捉えきれない。この現実と、記憶の連続性が断たれていた。
「……よし」
静かに、彼女が立ち上がった。
背丈は百六十くらいだろうか。廉太郎より十センチ以上目線が低く、やはり同学年の女子に近い歳の頃だろうと思われた。
立ち上がってなお顔を合わせようとしてこない。足が長く、細身で繊細な印象を受ける。足に張り付く黒いズボンが、スキニー状にそれを際立たせていた。
彼女は棒状の物に寄りかかり、視野のない地に足を立てる。
それは杖ではなかった。
光を反射する見事な刀身をもつ、大ぶりの刃物。大剣と呼ぶほかないそんな凶器を、彼女は当たり前のように地面に突き立てていた。
思わず、ぎょっと目が奪われてしまう。
「道は私が覚えているから、どこに何があるのかだけ教えてくれる?」
「えっ? 覚えてる……って」
妙なひっかかりを覚え、思わず聞き返す。
目が見えないのに、入り組んだ順路など覚えられるものだろうか。やはりここで目を負傷していて、だから来るときは道が見えていたのだと言われればそれまでだが、単純に覚えてしまうのが難しい道だろう。
それも、目を背けるほどの負傷を負ったうえで自信満々に思い起こすことができるとなると、称賛を通り越して驚愕するほかない。
そんな動揺を肌で感じとったのか、少女は僅かに言い淀みながら捕捉を加えた。
「あぁ、その……私の視力は魔力に依存しているから」
「――なんだって?」
彼女が口にした言葉を、うまく呑み込むことができなかった。
「魔力さえあれば視力を確保できるのだけど……見た通り全力で傷をふさいでいるのよね」
そう言って腹に手を当て自嘲気味に笑う彼女を、呆けた様に見ていることしかできなかった。
「来るときに見た道を覚えているから……あなたが先導さえしてくれれば、正しい順路を指示できるわ」
廉太郎は笑えなかった。
少女は、そこで僅かに警戒の色を見せる。
「というより、あなた……何をしにこんな場所まで来たの? 帰り道も確保してないなんて、おかしいんじゃない?」
廉太郎は答えられない。
答えられるはずもなかった。
彼女が冗談を言っているわけでも、気が触れている訳でもないということは、傍にいて確かだと感じられる。
「その……」
言い淀みつつ、彼女の傷口を凝視する。じろじろと、いっそ無遠慮に。
まるで大きな刃物で貫かれた様な痕。腹部と背中、衣服が同じく裂けている。
傷の様子と周囲に散った血痕が、彼女が死んでいなければおかしいということを嫌と言うほど伝えてくる。
それこそ、尋常ではない常識外の力でもなければ。
魔力と視力。
致命傷のはずの怪我を負いながら平然として見せる彼女。
そして、説明のつかない廉太郎自身の現状。
「わ、訳がわからない……どうして、こんなこと――」
廉太郎はこれまで、確かな現実の中にいるものだと思っていた。覚えのない場所に放りだされていても、夢だとは思えなかったものだから。現実感はなくとも、今ここにいるという自分の生は実感できる。だから連れ去られたのか、あるいは夢遊病のように放浪でもしてしまいこんな洞窟の中まで迷い込んでしまったのだと思っていた。
それが、どうやら違うらしい。
ここはもう、見知った世界とどうしようもなく異なっている。
信じるだけの根拠は揃っていたし、信じざるを得ないほどの衝撃に飲み込まれてしまった。
それらに比べれば、些細なことのように思えてしまう。
別の世界に迷い込んでしまったことなど。
魔力などと言う未知の存在があるのなら、世界を超えてしまうこともきっとあるのだろう。
知れず、冷汗が流れていた。
「――あぁ、いいわよ別に、答えなくて。詮索するつもりなんてないし、どうでもいい」
返答すら忘れて愕然としていると、やがて少女は投げかけた問いを撤回してくれた。
だがそれは、面と向かって言われるには引っかかるような言葉で。
「ねぇ、行く当てないんでしょ?」お見通しだとばかりになぜかそれを言い当てて「私と一緒に来なさいよ。町まで着いたら、お礼もできるから」
「え? あ、あぁ……」
町とはどこの町で、どんな町なのだろうか。この洞窟を抜けたら、どんな景色が広がっているというのだろうか。
廉太郎は己が何処に連れていかれるのかすら分からないまま、少女に急かされるかのように未知の世界に繋がる暗闇を照らしていた。
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