第14話 「悪霊対エクソシスト」

 南アメリカ南部に位置する連邦共和制国家であるアルゼンチン。

「南米のパリ」と形容されることもあるその街並みは、ヨーロッパ様式の建物が多い。

 また米国に次ぐ移民大国でもあり、特に欧州からの移民が多く、首都ブエノスアイレスは南米随一の国際都市と言われていた。

 

 モンテ湖に近い小さな村。

 とうに太陽は沈み、村の建物の灯りだけが浮かんでいる。


 フィリップは額にうっすらと浮かぶ汗を拭うこともせず、木造建ての二階にある子供部屋にいた。

 天井の電灯ではなく、部屋の四隅に置かれた燭台しょくだい蝋燭ろうそくだけが灯火を揺らめかせている。


 窓際に置かれたベッド。

 誰かが寝ているのか毛布がふくらんでいる。

 そこから漂っているのは、腐臭であった。

 生ゴミを何日もベッドの上で毛布を掛けているような、強烈な悪臭。


 フィリップの背後には若い夫婦が抱き合い、震えながらベッドを注視している。その横にはブエノスアイレスの教会からやってきた中年の神父が、フィリップと同じスータンをまとい、胸に下げた十字架と手にした聖書を握りしめていた。

 誰もが臭いを気にしている場合ではなかったのだ。


 ギーッ、音を立てて子供部屋の木のドアが開かれた。

 フィリップ以外の三人は「ヒッ」と声を飲み込んだ。

 小さな影がゆっくりと入室してきた。

 マルティヌスである。

「聖パウロの杖」で床を確認するように突きながら、フィリップの横に立つ。


「家の周囲は一ヵ所をのぞいて、結界で固めてきたぞい」


「ありがとうございます。

 その場所だけが奴が入り込めるわけですね」


 マルティヌスはニヤリと口元の髭を曲げた。


「おうよ。

 今夜、ここであやつは、ジ・エンドじゃな」


 ふたりの会話を後方に立つ神父が、英語からスペイン語に訳して伝える。

 アルゼンチンはスペイン語が公用語である。

 その神父はバチカン本部から派遣されたふたりのエクソシストに、そっと声をかけた。


「ほ、本当にその子から憑りついた悪魔を退散させられるのでしょうか。

 かなり強力な悪魔と見受けますが」


 フィリップは顔だけ振り返り、ニコリと笑みを浮かべる。

 その笑顔には誰もが安堵感をいだく。


「お任せください。

 ぼくはまだ修業中ではありますが、ここにいらっしゃるマルティヌス先生は」


「『世界一凶暴なエクソシスト』、ですか」


 神父は悪魔よりもむしろ怖いものを見るように、マルティヌスを上目遣いでうかがう。

 マルティヌスが指を立てて一言物申そうとしたときであった。

 ベッドからドンッ! と音が狭い部屋に響く。

 ベッドには六歳になる若夫婦の娘が布団をかけて寝ている。


「むっ」


 マルティヌスは振り返った。

 フィリップは両手首に巻いていた「ネオンリング」を、カチンッと鳴らして交差させる。

 カチャンカチャンとブラックとグリーンのマジョーラカラーに彩りされたグローブへ変形していく。


 カッ、とつむっていた両目を開く幼女。

 その瞳は毛細血管が浮き出て、青い瞳がみるみる邪悪な黒い色に染まっていく。

 夫婦は悲鳴をかみ殺し抱き合う。

 中年神父は唱えている聖書の一節をさらに声高にした。

 ギロリ。

 娘の双眸そうぼうがフィリップを捉える。


なんじ、誰ぞ」


 幼女の声ではなかった。

 テープに録音した音声をスロー再生したような不気味な低い声。


「わたしはしゅの使い。

 フィリップ・チェンと申します」


 たとえ相手が誰であろうと、フィリップは必ず礼儀を正す。

 祖父からの教えであった。


「ふんっ、たかが一介の神父ごときがしゃしゃり出おって。

 我にかしずくがよい。

 我こそ汝らがあがめるめる神以上の存在」


 大きく見開かれた真っ黒な瞳がフィリップをあざけるようににらむ。


「あなたはどなたでしょうか。

 わたしは自己紹介をいたしました」


 あくまでも礼節を重んじる。


「我に従え。

 さすれば名乗ってしんぜよう」


 柔和な表情のまま、フィリップはグローブをはめた両手を挙げた。


「残念ながら、それは出来ません。

 わたしが崇めるのは唯一、われらの神のみです」


 直後、ブワッと少女の口から灰色のゲロがフィリップへ吐きかけられる。

 両手を顔の前でクロスさせた。

 ジュンッ!

 音を立ててゲロが蒸発する。

 ガタッ、ガタガタガタッとベッドがかしぎ始めた。


 いきなり少女の上半身がグワッと起き上がる。

 フィリップの眉間にしわが寄った。

 少女は笑い始めた。

 口が引き裂かれるほど開けられ、喉がつぶれるほど大声で笑う。


 母親は悲鳴を上げる口を両手で押さえた。

 少女の顔につたが絡まるように青い血管が走る。

 ギロリ、とフィリップを睨んだ。


「我は地の底における最上級の天使なり」


「魔王、ですか」


 フィリップはむしろ涼しげな目元で、少女に微笑む。


「ま、魔王!」


 聖書を胸元に抱いた神父が引きつった声を上げた。

 マルティヌスはちらっと神父に視線を向けた。


「ウソじゃな」


 神父は「えっ?」と目を見開く。


「こやつは雑魚じゃ。

 下級の下級よ」


 その言葉を耳にした少女の眉間にしわが深く刻まれた。


「我を愚弄ぐろうするのかっ」


 ガタガタッ、ベッドが揺れその振動が部屋全体に共鳴していく。

 両親は抱き合ったまま床にへたり込み、神父も頭を聖書で守りながらしゃがんだ。

 家具や燭台も不気味な音と共に揺れる。


 フィリップがいきなりグローブをはめた両手で、少女の首をしめた。


「キャーッ」


 少女は可愛い悲鳴を上げる。

 母親はあわてて立ち上がり、フィリップを止めようとした。

 その目の前にスッと上がった棒、「聖パウロの杖」が行く手を阻む。

 マルティヌスは振り返ることなく、母親に告げた。


「だまされるでない。

 よう見よ」


 母親は恐怖と悲嘆で白くなった顔を震わせながらベッドに視線を向けた。

 混乱しているのか、少女の上半身が二重に映る。


「フィリップ、ゆっくりとな、ゆっくりと」


 マルティヌスは静かな声で言う。

 フィリップは少女の細い首をしめているのだが、様子がおかしい。

 べったりと貼られたテープを引きはがすかのように、少女の身体を手前に引いている。


「や、やめよ!

 く、苦しいっ」


 少女の顔が苦痛で歪む。

 手前に引かれている姿が明らかに二重になっていく。

 少女の上半身がゆっくりと分離していくのだ。

 引かれていく身体と、静止した身体。

 苦悶を浮かべる少女の顔のすぐ後ろに、あどけない眠った表情の少女。

 首をしめるフィリップの腕を、引かれていく少女の細い両手の指がかきむしる。

 バリバリッと布が裂かれる音。

 フィリップの黒いスータンのそでが鋭い爪で破られていくのだ。

 それをまったく意に介さぬように、フィリップはゆっくりとそのまま後ろに下がっていく。


 今や完全に少女の身体が分離した。

 ベッドに上半身を起していた少女の身体が糸を切られた操り人形のように、ベッドに崩れた。

 両親と神父は唖然と口を広げたまま、目の前で起きる光景に釘付けとなった。


「そうじゃ、うむ、上手いぞよ」


 マルティヌスは杖に両手を乗せた。

 フィリップの両手で首を絞められ引きずり出される少女の姿に変化が起きる。


 髪が抜け始め、可愛らしいラインであった顔の頬がへこんでいく。

 さらに両目が裏返り、小鼻が陥没した。

 むき出しの歯がポロポロと抜け、代わりに黄色い牙が生えていく。

 着ていた花柄のパジャマが朽ちていき、落ち葉のように床に散らばった。

 

 その下に現れたのは少女の肉体ではなかった。

 灰色の皮を骨の上からかぶせたような、おぞましい身体。

 

 ギィッギィッ!

 

 そいつは判別不能な叫び声を牙の隙間から発し、長く伸びた枯枝のような指でフィリップをひっかく。

 ベッドからつかみ出し、床に立つフィリップは両手を顔の上へ持ち上げた。


「ほれ、見よ。

 なぁにが魔王じゃ。

 地獄に巣くうただの下級悪魔よ」


 マルティヌスは三人に顔を向け、フィリップに吊るし首にされる悪魔を指さす。


敬虔けいけんなる神の子に憑りつきしものっ。

 この手にあるのは十字軍騎士団の『ネオンリング』。

 その力をお見せしよう!」


 フィリップは声高に言うと、悪魔に顔を向けた。

 グローブが淡く白銀の光に包まれていく。


 変貌し正体をあらわにした悪魔の首から、ゆらりと煙がたちこめた。

 悪魔は四肢を振り回し、口から大量の唾液を垂れ流す。


「浄化!」


 フィリップが叫ぶ。

 グオオォーッと悪魔は断末魔の声を上げた。

 銀色の炎が全身を伝い、灼熱のなか、悪魔の姿がみるみる燃え上がっていく。

 チリチリと黒い灰が舞う。

 シュンと空気が一瞬震え、悪魔が消えた。

                                  つづく

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