ホワイトシチューの薄いの-03
夜。シノハラにタオルを与えて、洗面台の隣にあるシャワールームへと案内をして、江本は再び煙草を吸いに外へ出た。食事中でなくとも、彼が部屋に流れ込むのだとか、江本の身体に染みついているのとか、そういう煙草の臭いに慣れるまでは外にいた方がよかろう、と考えたからである。
問題は、江本が仕事をしている間に、彼にどうしていてもらうのが良いか、というところだった。
それを考えるために外へ出たものの、ちびた煙草を取り出すのに五分少々の時間を要して、その間にすっかり忘れてしまいそうになって思い出す。
どうしたものか。煙草に火をつけ、短くなっていたせいで少々焦げた前髪の臭いを嗅ぎながら、考えた。食事の際に出てきたことを考えると置いてゆくのも忍びないが、仕事場に連れてゆくというのもどうかと思う。
ここはひとつ、信頼のおける店の人間に、労働力としてかくまってもらうのが最良だろうか。大きくひとつ深呼吸をして、知り合いの顔を思い浮かべた。
肉屋の姉ちゃん。悪い女ではないし、見た目だけで言えばいい女だったが、いささか気が強い。うっかりすると、彼女の包丁であればシノハラ一人分かっさばいて商品にするのなんて一日もかからないだろう。あの男が彼女の機嫌を損ねるようなまねをするかと言えばそうとも思えないが、人間何でぷつりと行くか、なんていうのは分からないものだ。
それであれば、逢澤の世話係。彼女は大人しく、シノハラがどうにかされてしまう心配はない。ただし今度は精神衛生が問題になる気がした。地下深く繋がれ、薄暗い部屋でモニタと仲良くやるのが性に合っているのだ、と、結局以前と変わらない生活に戻った彼女と、うまくやっていけるだろうか。お世辞にも真っ当とは言い難く、穏やかで寛大ではあるが難もある。シノハラがそれらのギャップや、あの部屋の環境に耐えられる人間であるのか、どうか。
江本は深く深呼吸をして、短くなった煙草にとどめを刺した。ほかに思いつくのは、階下の名ばかり性風俗である。
性風俗と言っても、店の女どもは上等な見目をしている上に売り方が巧い。性の安売りで溢れかえった行燈街においては珍しい、高値の女たちの居所であって、シノハラが馴染めるのであれば、黒服として危険が及ぶようなこともあるまい。
上等な女を求めてくる客は、そこそこの金持ち、ではない。それこそ性風俗が不衛生であると禁止された摩天楼に働くか暮らすかしていて、かつ、舘のそれのようにある程度の信頼を得て検疫なしにあちらとこちらを行き来できる、立場も金も、品位も約束された男たちである。
煙草の火を踏み消し、江本はもう一本に火をつける。壁近くでどういった生活をしていたか定かではないが、ここいらは行燈街の中でも冷える方であるから、あの白い肌をした彼には寒かろう。シャワールームでしっかり温まってくれることを期待することにして。
その後も何軒か思いつく伝手を記憶の中で当たってみたが、結局、あの名ばかり性風俗店が最適だろうという結論に至る。
店の女に「手を出すなよ」と釘を刺して、ついでにチップを握らせて、店主に断りを入れて目を光らせておいてもらえれば、きっと彼に女の手が伸びることも、場違いな男に危害を加えられることもあるまい。
そうと決まれば、と、江本は端末を取り出した。
「マダム、ご無沙汰してっとこ申し訳ないんだけどさ」
シノハラは、江本の話す声を聞いていた。
震えの出るほど、とまではいかないが、冷えた身体をすっかりシャワーで温めて、一歩出た瞬間に襲い来るつめたい空気に肩をすくめ、再度冷え切ってしまう前にと急いで、与えられた服を着た。その時、聞こえたのだ。
まるで採寸されたかのような、あまりのないシャツの袖、ジーパンの裾を眺める。彼は、マダムと呼んだ、恐らくは女性であろう相手に、シノハラを雇ってくれないか、と交渉しているようであった。
自分の意思や、予定があったのなら、一体どうするつもりだろうか、と考える。そんなものはどちらもなかったが、何となく、自分が物のように扱われている気がした。
江本が不在の間、ひとりで家に置いておくのもなんだから、と押し付けられる。そう考えると、手のかかる荷物だ。
シノハラは、何だか無性に腹が立って、結論を聞いてやらないことにした。部屋に戻り、例のマットレスを引き倒して、――先ほど寝た時には気が付かなかったが――奥にあった布団をそのマットレスの上に敷いて、横になる。
髪が濡れたままだったが、まあいいかと思えた。
掛け布団が見当たらないのも、まあ、そのうち聞けばよいか、と思った。あの家の冷たい板張りの上に寝ていて何の不便もなかったのだから、こうして柔らかいものの上で眠っているだけでもありがたいものだ。
シノハラは、またそのまま目を瞑る。日が暮れてしまえば、あとはいつだって眠れるのだ。ひとつ溜息を吐く。
江本がマダムと話をつけ、戻った時、シャワールームの電気は落ちていた。当然真っ暗な中にいるはずもなく、湿ったタオルがドアの取っ手にひっかけてある状態。
これで与えた部屋以外の場所にいればどうだろうか、と思ったが、それも杞憂であった。彼の姿はどこにもない。江本が玄関に立っていたのだから、それ以外に外へ出られる窓もない。自室にいるのなら、声を掛ける必要もないし、もし眠っているとすれば起こす必要もない。
マダムのことを話すのは、明日の朝で良いだろう。
江本はそう結論着けて、リビングのソファを倒す。上等とは言い難いが彼には十分なソファベッドに寝転んで、毛布をひっかぶって目を瞑った。
久しぶりに人の世話を焼いたから、興奮でもしていたのだろうか。彼は不思議と、なかなか寝付けなかった。
翌朝。江本が朝特有の冷たく乾いた風に目を覚ますと、玄関の扉が開いていた。そして、そこから出てゆこうとする、覚束ない足取りのシノハラの背中があった。
まるで夢の中での歩行のように頼りなく、ふわふわと、彼は外へ行く。そのまま螺旋階段の一段を降りて、消える。
足を滑らせたか、無事か、と、寝ぼけていた江本の頭が覚醒した。毛布を放り出し、不精髭の手入れなんかももちろんせずにそのままで、靴すら履かずに外へ出た。見ると、ステップの一枚が丸々抜けている。
これでは階下までまっしぐらに落ちた。無事では済まなかろう。昨晩までは心許ないなんていうこともなかった――と言えばうそになるが、いつも江本の体重を支えてきたこのステップが、シノハラ程度の重量に耐え兼ねるとは想像もつかなかった――のに。
「シノ!」
無事か、と声を掛ける前に、大慌てで駆け寄って、手すりから身を乗り出した。自分も落ちるかもしれない、ということは、不思議と、一瞬たりとも、頭をよぎることがない。
「……、」
真っ黒な階下。朝だというのに、陽のひとすじも射していないかのような黒は、あの日見たあの家のありさまによく似ていた。シノハラはきょとんと驚いたように目を丸くして、あおむけに転がっている。無傷ではないだろうが、無事ではあるらしい。ひとまず安心し、江本は辺りを見渡す。
あの日聞いたはずの声の主が、どこぞに居やしないかと。
「さっさと追い出してくださいよ、そんなの」
左側、耳より少し後ろ、そして少し低い位置。江本は振り返りざま、条件反射で肘をとがらせ、左脚を半歩下げた勢いでねじ込めやしないかと目論んだ。
しかしやはり、そこには何もない。声を残したらしき人影もなく、声以外のどんな痕跡も、手ごたえもない。
「それ」はきっと、己には理解のしがたい何かであるのだ、と思うと同時に、そんなものに狙われているのであろうシノハラの素性は、ある程度聞いておいたほうがよいのではないかと思われた。今でなくとも、なるべく、早くに。
alone in the sky 魚倉 温 @wokura
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