ホワイトシチューの薄いの-02

 金属を光沢のない黒の塗料で仕上げた脚に、がらすの天板を乗せたローテーブルに、湯気を立てるシチューと、炊きあがったパックのシートを剥したのを置く。

 シノハラは目を丸くして、並べられた食事と江本とを交互に見た。

 「マトモなもんが出てくるとは、って顔してんな」

 腹を立ててもよかろうところだったが、江本は笑う。さほど長くを過ごしたわけでもないというのに、見れば見るほど表情豊かでともすれば間抜けな彼のことが、愛おしくなったのだった。

 事実、江本は個人で食事を摂る時、それから、職場での食事の時にはもっと適当な、お世辞にもマトモとは言い難いものを摂ることの方が多い。

 料理をすることを覚えたのはひとえに逢澤との生活があったからだが、やってみれば楽しいものだ。久しぶりの客人に浮かれて、というのを差し引いても楽しかった。これからは特に何も変わったことがなくとも作る、ということにするのもアリかもしれない。

 「ま、少なくともお前がいる間は、このくらいのものは出してやるよ」

 自分の分の椀に黒胡椒を挽いて、おまえもやるか、とシノハラに差し出す。彼は戸惑ったようにそれを受け取り、江本がやっていたのを見よう見まねで、というふうにたどだどしく挽き始めた。が、いかんせん力が足りないのだろう。突っかかっては不思議そうな顔をして元に戻し、今度こそ、というふうにもう一度捻ってはつっかかる。

 見かねた江本が手を伸ばし、彼の手の中から胡椒を奪い取って、ぱらぱらと少しばかり、彼の椀の中に落としてやった。

 「さ、食え食え。冷めるぞ」

 まだ熱いシチューをスプーンに取り、吹き冷まして口に入れる。やはり材料が足りない分薄く、物足りなくは感じるが、その割にずいぶんうまくやったものだ、と思えるくらいには上出来の味だ。

 シノハラを見ると、彼も想像していなかったのだろう。意外そうな顔をして、江本のそれよりもうんとちいさい一口分を運んでは啜っていた。

 江本は、先ほど開けた残りの酒を飲む。といっても、それこそシノハラのシチューの一口ぶんだろうか。思い切り呷ってもほとんど入って来ない程度の少量しかなかったそれを飲み干して、席を立つ。

 キッチンから見たシノハラは、上品な顔立ちにぼさぼさの頭、それから不思議そうな表情と、目の前の薄いシチュー、冷めかけの飯があんまりにも不似合いで面白い。

 追加の一缶を取り出し、江本は食卓へ戻る。シノハラのシチューはあまり減っている気配がなく、その割に飲む仕草が多い。

 「お前、熱いのだめか」

 「そりゃあ、熱いものはまだ食べごろではないということでしょう」

 だめか、というのはそういう意味ではなく、苦手かどうか、という意味だったが、なんて訂正する間もなく、シノハラはまたシチューに取り掛かる。苦手なりに食欲をそそるならばそれでいいか、と、江本は愉快な気分になった。

 結局、江本が二缶めの酒とシチュー、それに飯を食い終わっても、シノハラはまだ半分ほどしか終わっていなかった。

 しかしその頃には彼の言う食べごろになったのだろう、ペースは幾分よくなっていて、彼も食事に向き合うタイプか、口数少なく黙々とシチューを口に運んでは咀嚼し、なくなれば飯を運んで咀嚼する。そういう動作を繰り返していた。

 「ま、ゆっくり食えや」

 江本は一声かけて、食器を流しに入れて水に浸す。さてどこで一服するか、と部屋を見渡して、換気扇はまたあの厭な臭いが入ってくる元になるからだめだし、何の配慮もなしに部屋で吸うのも、という気分になって、部屋の外へ出ることにした。

 螺旋階段で、汚い手すりに身体を預ける。

 すっかり暗くなった空に、上階の水色のネオンが眩しい。

 煙草の煙は上へ上へと昇っていき、あるところでふっと横に流される。深呼吸の度にその地点は変わってゆき、とうとう江本の顔のすぐ近くで煙が流れるようになった。

 「あの」

 食事中だったろうに、風の出所、家の扉が開いて、シノハラがそこにいた。申し訳なさそうな顔をして、突っ立っている。

 どうした、と聞くと、彼は視線を伏せた。

 しばらく言いにくそうにそうやって、彼はようやく口を開いた。

 「どうして、摩天楼で働いているのに、こんなところに暮らしているんです」

 不便ではないのか、と。

 わざわざそんなことを言いに来たのか、と笑って、江本はシノハラにしっしと手を振る。

 「これ終わったら、戻って答えるさ。飯食ってな。終わってねえんだろ」

 シノハラは、すごすごと戻っていった。


 終わった煙草を一本靴底で踏み消して、もう一本に火をつける。溜息の代わりに深呼吸をして、煙を吐き出す。

 シノハラの表情は、悪い夢を見たと言って夜中に起きてきた時の、逢澤のそれにそっくりだった。幼い子供でもあるまいに、とも思わなくはないが、記憶も混濁して暮らしていた家もなくしているのだから、それも仕方のないことなのかもしれない。

 たばこ一本。それがどのくらいの時間かは、きっと彼には分からないだろうが、あまり誤魔化して彼を焦らしてしまうのも悪い気がする。

 二本目の煙草の半ばほどで、江本は火を消すことにした。勿体ないので火種だけを落として、短くなったのはソフトパッケの中に戻しておくことにした。

 「食い終わったか」

 「終わりました」

 ついでに皿洗いでも済ませて置いてくれればいいのだが、と、言おうとしたところで、彼の皿がまだローテーブルの上にあるのを見つけた。

 本当に今の今、食べ終わったのだろうかと考える。

 だとしたら、彼の返答はあまりにも健気なそれではなかろうか。肉屋の姉ちゃんより、もしかするとこちらの方がいい女だったのかもしれない。そんなことをさえ思った。

 「そしたら、さっきのは皿洗いながらでいいか」

 「それなら」

 自分がやる、と言おうとしたのだろう。彼の言葉を制して、江本は流しに立った。

 「見てみろ、お前の立つ場所なんて余ってねえんだわ」

 ひとつ笑う。そして、のんびりしてろ、とまた追い払うように手を振って、水に浸した分から皿を洗い始める。

 で、何の話をすればよいのだったか。

 ついつい癖での鼻歌混じりに考えて、江本は思い出す。

 「あー、あれだったか。俺がこっちに住んでる理由、だっけか」

 「ええ、まあ」

 歯切れの悪いシノハラの返答に、ほんとうに聞きたかったことはそれではないのだろう、と直感する。問い詰めることはしないが、いつか話したくなったら話すだろう、ということにしておこう。

 「単純だよ。あっちは性に合わねえ。あんなきれーなところにいたら、俺みたいなのは肩が凝って息が詰まって死んじまうんだ。あっちの綺麗な快適な空気より、こっちのべたついて臭いのの方が落ち着く。そういう人種もいるってことさ」

 お前がどっちかは知らないけどな、と、付け加え、江本はまた笑った。

 シノハラがどんな表情をしていたのか。それを江本は知る由もないが、江本にとってはどうでもよかった。それが本題ではないと悟ったからかもしれない。けれど元々、彼の素性に興味がないのも、彼をどうして自分に預ける気になったのか、と舘に問わないのも、どこか別に理由があるからかもしれない、とも、思わなくもない。

 それは追々考えよう。

 「真面目な話は疲れるな。シャワー浴びて、とっとと寝よう」

 江本は洗い終わった皿を水切りに並べながら、未だ無言のシノハラに声を掛けた。

 こいつは例えば、摩天楼の清浄な空気を好む人間か、それともこの行燈街の脂じみた空気を好む人間か、そのくらいなら、聞いてみてもよいのかもしれない、と思いながら。

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