ホワイトシチューの薄いの-01

 江本が帰宅したとき、シノハラは自室として与えた部屋で、布団も敷かずにマットレスの上に転がっていた。

 背中を丸めたその姿は逢澤のそれよりも子供っぽく見え、不思議な感慨にとらわれたものだったが、彼は逢澤よりもうんと白い顔をしているものだから、あどけなさといったものは感じなかった。

 加えて、成人男性であるということがそうさせるのだろうか。眠っているのを起こすことにも、さほど抵抗がない。

 飯ができたら、冷める前に起こしてやろう。

 江本はそう考えて、買い込んだ荷物を置き、ドアを閉めた。

 荷物はそう重くはない。多少の肉と、それから根菜の類。調味料は家にあるもので事足りるだろうと思って買わなかったし、水蒸気加熱を数分で食えるようになる穀物パックも備蓄がある。ピアスがバチバチに空いた、穴ぼこの耳の姉ちゃんに気に入られたかったがために少々肉を買いすぎたが、食い盛りの男二人であるから、心配も必要なかろう。

 流行りをすぎた古臭いバンドの曲を口ずさみながら、江本は鉄製のフライパンを火にかける。

 その間に荷物をばらして、肉はパッキングされたもののうち今日食べるであろう分を取り分け、残りを冷蔵庫にしまう。根菜類は半分に切っておいて、残りに薄いプラスチックの覆いをかけて、同じく冷蔵庫。

 中に乳飲料が残っていたのを発見したので、炒め物の予定だったのを急遽シチューに変更することにした。

 口ずさんでいた曲がサビにさしかかり、ピンポイントにその部分だけ歌詞を憶えていることに感動する。歳の割には、まだ物覚えも悪くはなっていないらしい。

 シチューというには小麦粉がないが、まあいいだろうと妥協する。加えて言うならバターもないが、肉から出る脂で何とでもなろう。肉切り用の、姉ちゃんの分厚い包丁で断ち切られたブロックは分厚い。機嫌を損ねるまいと適当にしてくれ、なんて言ったものだったが、炒め物用になんてしていたら、土壇場の予定変更には耐えられなかっただろう。

 ちょうどいい。鼻歌もいい具合にサビで、高揚した気分のまま江本は肉をハンマーで叩く。食品用のものではないから、頭にはきちんとプラスチックをかけてある。

 肉が二回りほど大きくなれば、おおよそ調理に適した具合だ。広がったそれを手でもとの大きさに戻してやり、包丁を使って適当なブロックに切り分ける。温まったフライパンに油を引いて、油の中に酸素が浮かんでくるまでの間、根菜を洗い、皮を剥いで、銀杏の葉のかたちに切り分けておく。

 温まった油に肉を落とし、菜箸でつついて油を広げる。ついでに肉の脂も広がるから、一石二鳥というものだ。

 「さて」

 一曲分を口ずさむのが終わり、もう一度同じ曲にするか、それとも別の曲にするかと考えた。せっかくだから、一部分しか覚えていない曲にしよう。この調子であれば、歌っている間に思い出すかもしれない。

 冷蔵庫で待つ酒のことを想い上機嫌で、江本は肉を並べる。

 火は通り切らなくったってよいのだ。すべての側面にほどよく焼き色がついたら、肉のことは引き上げる。内側は、この後煮込む時にでも火が通るだろう。

 口ずさむ歌は、一向に思い出せそうにない。どうしたものかと考えながら、江本は同じ部分ばかりを繰り返し口ずさむ。そのうちそれが楽しくなってきて、おまけに、歌えば歌うほどにその部分ばかり記憶に残って、うっすらと憶えていたはずの他の部分が消えてゆく始末だった。

 江本は他を思い出すことをすっかり諦め、何度も同じ部分を繰り返しながら、外側のこんがり焼けた肉をフライパンから引き上げる。肉の脂の残ったそこに根菜を並べて入れ、軽く炒め、それから乳飲料を流し込んで、よく混ぜる。

 さて次の工程までには時間がかかるぞ、と、彼は冷蔵庫へと歩き出す。まったく同じリズムを口ずさみながら、二番だったろうか、先ほどまでとは異なる歌詞を乗せてみた。

 「諦めたはずなのに、だったかな」

 冷蔵庫を開け、片手に菜箸を持ったままであったことに気が付いて、肘を挟む。肩ごと中に手を入れて、よく冷えた缶入りの酒を取り出す。身体をそのままするりと抜いて、そのままでは閉まりきらない冷蔵庫の扉を膝で軽く蹴って閉めてやる。

 「違うな、もっとこう、明るいやつだわ」

 独り言がはかどる。親指と中指、薬指で缶を支えて、人さし指で缶の口を開ける。小気味のいい音がして、中に詰まった気体が抜けた。

 気に食わないわけではないが、思い出せないのはもどかしい。その気持ちを押し流し呑み込むように、酒を傾けて流し込む。しまった、もっと早くに酒を飲むべきだった。そうすれば、ちょっとも肉を漬けておく分を置いておくことができただろうに。

 ふつふつと沸き始めたフライパンの中身を前にして、江本はまた酒を飲む。菜箸でつついた根菜はまだしっかりしていたが、温まってはいる。流しの下から顆粒の調味料を出してきて、ひとかけ、ふたかけ、あともう少しかというところでやめておく。

 また手持無沙汰にぐるぐると鍋を混ぜ、引き上げた肉の処遇について考えた。こいつらをこの中に投入するのは、まだもうすこし後でもよいだろう。

 酒が美味い。そういえば、あいつは酒を飲むのだろうか。

 急にそわそわとした気持ちになる。酒好きだとしたら、隠れて飲んでいることが悪であるかのように思えたのだ。

 「いいだろ、寝てんだし」

 罪悪感を流すにも、酒はよく効く。


 それから、温まった汁の味見をして、塩をふって、根菜がほどほどに柔らかくなった頃に肉を入れて蓋をした。

 数分の間に例の水蒸気加熱用のパックを取り出して、二人分温めておく。両方ともを待つ時間を作っておいて、江本はシノハラを起こすべく彼の部屋へ向かった。

 「起きろ、飯冷めるぞ」

 できてもねえけど。というのは、心の中に留めておいた。マットレスの上で小さくなっていた彼は、一度めの声掛けで聞き分け、のっそりと身体を起こす。

 頭の下敷きになっていた髪が、くしゃくしゃに散らかっていた。それを知ってか知らずかその髪を手でかき混ぜて更に散らかしながら、彼はひとつ、大きな欠伸をした。人形らしいと思っていた表情も、いっそ間抜けなその様を見てしまえば印象が変わる。

 「ほら、顔洗ったりすんならこっちだから」

 「……飲めるんです、ここの水」

 寝ぼけたかすれ声も、間抜けだった。舘の用意したあの部屋とは違って、この家に空調なんてものはない。あると言えばあるが、ないも同然だ。

 そんなであるから、彼の声も、あの時の寝ぼけ声とは違って聞こえた。

 「飲めなくはない。けど、勧めやしないぞ」

 勧めない、というところを強調して、江本はさらりと告げる。どうしても飲みたいというのなら、明日あたり摩天楼で水のボトルでも買い込んでくるか。

 「いえ、その。聞きたかったのは、うっかり口に入っても死にやしないか、ということで」

 彼はそう言って、気まずそうに視線を逸らす。

 なるほどこの生活環境を不服に思った、と、伝わったのではないかと心配しているようだった。江本は、そんな心配は無用だとばかりに彼の背をひとつ叩いて、「顔洗ったら、そのままそこのテーブルのとこに座ってろ」と言った。

 彼は大人しく洗面台に向かい、江本がするよりもうんと静かに顔を洗って、「拭きものが」ともにょもにょ言いながら、目を瞑って出てくる。水滴まみれの顔。長い睫毛にも大きなのをぶら下げていて、たしかに美しいが、やはりどこか間抜けな感じがした。特殊な趣味の彫刻家が、とか、絵描きが、とか、そういった風情だ。

 江本はまるで逢澤よりもうんと子供のすることではないか、と思いながら、洗い上がりのタオルを持って彼の元へと近づく。

 「ほら」

 濡れた顔にタオルを軽く押し当て、彷徨った手が江本のそれごとタオルを確保するのを見て、ひとつ、ほっと息を吐く。

 「飯だ飯。お前、酒飲むか」

 「いえ。酒は」

 「飲んだことねえか?」

 でもないですけど、と歯切れの悪いのを、またひとつ背中を叩いてやる。飲めってんじゃねえよ。安心したように肩の力が抜けるのを見て、その手からするりとタオルを奪い去った。

 「座ってろ、準備するから」

 

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