趣味の合わない部屋-04
せっかく作ったものを、何のためらいもなく壊した、という風に見えたのだと、彼は言う。江本は応えた。作ったものか、できたものか、壊したのか、片付けたのかの違いを考えるのは大切なことだと。
静かな車内で、ぽつりぽつりと話す淡泊なシノハラの声、重くかすれたのを随所引き伸ばして、あー、とか、そうじゃなくてだな、とかいう江本の声が、互いにバランスを見極めようとしている。
お互いに、どの程度の会話をすべきか、と考えていた。早口で話すのを好むではないだろう、ということはお互い察していたが、口数は多いのか、少ないのか、どういった話題を好むのかとか、そういう点を見極めることに、特に江本が執心していたのだ。
「いや、まぁ、いいじゃねえか。そういうさ、真面目で細けえ話は向いてねえんだよ」
馴染みのネオンが見えてきた。性接待と銘打った店のキツいピンクの、切れかけでちらつくネオンだ。
広くはないとはいえ、雑居ビルの顔として一面に主張するそのネオンには、多少の愛着もある。
「で、だ。何なら向いてるかって、飯の話さ」
「食事がお好きなんですか」
「三度の飯よりな」
今のは笑うところだ、と小突いてやりながら、江本は徐々に近づいてくるネオンを眺める。道中一度も、何のちょっかいもかけられないでたどり着くとは、舘の車は厄除けのお守りにでもした方がよいのではないか。
「おまえさん、晩飯何がいい?」
シノハラは、相変わらず不思議そうな顔をしていた。まさか摂らないとはいうまい、と返答を待つ。
今までこうして、意見を聞かれることがなかったのだろうか。あの家に彼ひとり、ずっと暮らしていたとすれば当然聞いてくる相手もいなかろうが、生まれてこの方、というわけもあるまい。
厄介事の種、裏側とか、内側に闇のあるタイプを抱え込んでしまったのでは、と、江本はこっそり頭を抱えた。――ここには人間はいない――あの日たしかに聞いたはずの言葉を思い出す。
「……ここでは何が食べられるのか、が分かりません。あの家の周りには自生しているものがあったのでそれを食べていましたが、この辺りには」
「植物はないさ。生える隙間もないくらいに人間が生きてる。だから、他のもので何とかするか、植物は壁近くまで取りに行ったりもする。で、金と交換して手に入れる、ってわけで、何が食べられるのかって答えは『なんでも』だ」
車は、ネオンのある壁面を右にして、その角で右へと曲がる。飲食店のダクトから出る脂っぽい排煙と、ほんの数分先のゴミ捨て場にもたどり着けなかった哀れなゴミ屑が我が物顔。
「さ、我が家へようこそお人形さん。おまえさんにゃ似合わねえが、舘の部屋より趣味はいい」
シノハラの返事を待たず、江本は車の扉を開けて降りてゆく。さてどうしたものか、そういえば待っていろと言われたような、と考えていると、頬を生ぬるい風が吹いた。
視線を向けると、江本の顔。生ぬるいのはダクトの風。何度もそこで深呼吸でもしようものなら、てきめんに肺腑をやられてしまいそうな不快な臭い。
扉が開いていたのだ。
まるでエスコートをするかのようにそこに立ち、扉を開けたまま保つ江本の表情は、さっさと降りろと言っていた。
かん、かん、かん。
螺旋階段を上っていると、錆びまみれのそれがいつか急に一枚だけ抜けて、丁度それを踏んでいた自分の足ごとまっさかさまになる、というようなことを考える。
実現の可能背は七割ほど。触るとざらついて痛みさえ残す手すり、頼りなく、薄っぺらく見えるステップ。いつかはこの階段から墜落する日がくるかもしれない。シノハラにとってのそれは恐怖ではなく、どちらかというと楽しみであった。
先をゆく江本は、脆そうなこの螺旋階段に怯む様子もない。どれだけの期間かは分からないが、暮らしているのであれば当然だろう。
彼にとっては、このステップの抜ける確率なんてのはほとんどないのだ。シノハラにとっての三割を、これまでずっと選んできたのだから。
「おい、前見ろ」
そっけない声に、シノハラは顔を上げる。
背後にそっけない空を背負って、影になった江本の顔が彼を見ていた。髪の色が薄い。目の色も薄い。だが、影の中ではどちらも普段より濃く見える。
自分の真っ黒な髪や目を思い出し、少し、親近感をおぼえた。
「すみません」
「素直じゃねえか」
「まあ、その、緊張して」
「何にさ」
江本は声を上げて笑った。だるそうに見える顔をしているが、意外とさっぱりとした性格であるのかもしれない。
ひとしきり笑って、彼は後ろ手に扉を開ける。
錆付いた扉だったが、厭な音などはしない。
「中入って、すぐ右手に扉があるから」
先に部屋へと通されたシノハラは、部屋にほとんど色のないことに驚きながら、示された右手の扉へ向かう。
白と黒と、それから時々その中間の色がある。家具は金属製であるものが多く、けれど金属特有の光沢は、黒い塗料で塗り込められていた。物が多いとか、散らかっているということもないため、視界の情報量が少ない。右手の扉、というのは、そのおかげもあってすぐに見つかった。
「入っても?」
いいとも、おまえさんの部屋だよ。そんな声を背に聞きながら、シノハラは扉を開けた。
予想通り、というか、その部屋には何もない。揺れずに垂れ下がっているカーテンだけが、淡い水色をしていた。それだけが予想外であり、この家の中に唯一存在する色ではないかと思えた。
風に揺れるのを見られたら、きっと心地がよいだろう。きっと晴れ晴れとした気分になる。
「……ありがとうございます」
こぼした言葉は、聞こえていなかったかもしれない。素直に聞かれるのも照れくさい。その程度で良いのだと己に言い聞かせ、シノハラは玄関に戻ることにした。家主の行動を把握していないというのに、ひとり部屋でのんびりしているというのも気が引ける。
「あぁ、来たか。そしたらその荷物、持ってってくれ。場所はどこでもいいからさ、おまえさんの部屋でも、そこいらでも、踏んずけたり蹴っ飛ばしたりしなきゃあ、そんでいい」
シノハラの家から回収できた、という荷物。見覚えはないが、今着せられているのと同じであろうワイシャツ、ジーパンの見える袋。それから、ついさっき「予備くらい持っとけ」と言われて買った、履いてきたのとまったく同じ靴の入った箱。
シノハラがその荷物を持とうとしゃがみ込むと、江本は「あー」と言って、彼の注意を引いた。
「じゃあ、買い出し行ってくるから。荷物片して待っといてくれ。念のため、鍵は閉めてく」
そうして、彼は背中を向けて、扉を閉めた。腹の奥底から背中、後頭部の付け根にかけてが無性にざわつく。「片付けないと」と声に出し、そのざわつきを忘れようとしたが、ざわつきは消えない。
視界が明滅し、危うかった。けれど幸い片付いているし、荷物だって重くはない。多くもない。壁に手をつけば、右手の扉なんてすぐ近くだ。
そうやって己を奮い立たせて、シノハラは荷物を部屋へ運び入れる。
全て終わる頃には、身体中の血管が拡張しきったかのように脈打っていた。空腹でなければ、腹の中に入っていたものなんて全てぶちまけていただろう。
耳の奥でわんわんいう。その度に頭が痛むから、自分の脈打っているのが分かる。部屋の片隅に立てかけてあった、恐らくは客用のものだろうマットレスに腕をひっかけて倒した。引っ張られるように、自分もその上に倒れた。
このまま眠ってしまおう。そうすれば帰りを待つこともない。気楽なものだ。
シノハラは目を瞑り、うすっぺらいマットレスの下の冷たい床を感じて、背中を丸めた。
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