趣味の合わない部屋-03

結局、黒い靴下を買って、丈が半端だという顔をしているシノハラに文句を言う暇を与えず靴を買わせて、買い物は終了した。

「食品とか、って、言ってたのはいいんですか」

舘の私物たる高級車の中は走行音ひとつとっても配慮の行き届いたつくりのようで、シノハラの声もよく聞こえる。

「家の近くで買うさ」

通り過ぎてゆく景色を見ながら、シノハラは助手席で頷いた。江本は、前回この高級車に乗せられた時のことを思い出して、目を細める。年端もいかない、満足な教育も受けていない少女が、突然姪になった。あの時に比べれば、助手席にいるのが恐らく成人しているであろう男性だという点で気楽なものだった。

彼が自ら会話を切り出さないのは、人見知り故か不安故か、はたまた緊張でもしているのか。いずれにせよ江本の努力でどうにかなるものでもなかろう、と、自称気遣いのできる男として、シノハラから視線を逸らした。

日暮れが近づき、遠くに見える壁の端に斜陽が研がれて目に刺さる。もしも外に出ることがあれば、その時には車の窓を全開にして、吹き抜ける風の中を走りたい。

 「……どこまで、行くんです」

 シノハラは依然外を眺めたまま、言う。

 横顔のふちが斜陽の色をしていた。

 いつもより――といってもここ数日に知り合った程度の仲だが――も血色がよく見えるが、表情は冷たいまま。それがなぜか、アイスクリームの天ぷら、という言葉を思い出させる。元々冷たいものを、申し訳程度にあたためたところで。

 「家だよ」

 「職場から家まで、門を通る必要があるんですか」

 「あるんだなぁ、これが」

 壁の外まで行ってくれないか、とでも言い出しそうだと思ったのは、江本が直前に外でのドライブに想いを馳せていたからそう見えた、だけでは、きっとない。

 まさかあの時の家のありさまは、自殺のつもりだったのだろうか。江本には、それすら真実味のある仮説に思える。

 「不便でしょうに」

 「だけど、そうする価値もある」

 とん、とん、とハンドルを指で叩く。そんな江本を、車に乗り込んでからようやく一度め、シノハラが見た。

 彼に関しては、部分的な記憶の混濁がある、というふうに伝えられたっきりで、具体的に何を正しく知っていて、何を知らない、誤って知っているのか、ということさえ聞いていなかった江本だが、見るに、彼のいわゆる「常識」的なところは正常であるらしい。

 シノハラの不審げな眉間の皺にひとさし指を伸ばすと、彼はぎゅっと目を瞑って、逃げるように背を反らして、窓ガラスに後頭部を押しつけた。

 「はっは。いいじゃねえか、スキンシップのひとつくらい」

 眉間をぐりぐりとやって、皺を伸ばす。やはり彼はされるがままになって、指が動きを止める度に薄目を開ける。また指を動かすと、ぎゅっと目を瞑る。その繰り返し。

 江本はだんだんと愉快になってきて、シノハラの眉間が自分の体温ほどにあたたまるまで戯れた。ひとしきりやって、車内だけれども舘のものだし、と、ジャケットからソフトパッケを出す。仕事中にすっかり揉まれて柔くなった紙から、抜いた一本も湿気ていそうな雰囲気だった。

 「吸うんですね」

 「高級品も嗜める身分なもんで」

 軽口を叩き、たばこを加えて火をつける。赤くじりじりと迫る火先が前髪を焦がして、迫ってくる。

 そこから逃げるように深く息を吸い込んで、吐く。ゆったりと漏れ出してゆく重い煙。目に刺さる。研がれた斜陽と、はたしてどちらが痛いだろう。

 助手席には、折角伸ばした眉間にまた皺をよせて、不思議そうに江本を見つめるシノハラが居た。

 「お気遣いなく」

 そう言われても、それだけ見つめられては気になるというものだ。率直にそれを言葉にすると、シノハラは少し考えるように視線を伏せ、それから、なぜか眼球でぐるりと一周あたりを見渡して、ぱちりと瞬きをする。

 「誰か、知人が吸っていたような気がして」

 まあ、そのうち会うでしょう。シノハラはそうやって、ひとりで話を終わらせた。江本もそれ以上を追及する気にはならず、せねばならない話題とも判断せず、ただ紫煙を吐いた。


 あぁ、でも、文句を言ったんです。湿気たのは臭いから、新箱を買えって。そのくらいの金はあるだろう、って。


 静かな車内。シノハラのその言葉はもちろん江本にも聞こえたが、江本は何も応えないことにした。もしそれを望んでいるのなら、文句のひとつもあるだろう。望まれないのに首を突っ込んで、余計なことを思い出させるとか、そういう厄介な事態を招くことの方がうんと避けたい。

 煙草の煙を流すため、江本は窓を開ける。

 ほどよく身の引き締まる、冷たく乾いた、さわやかな風が抜けていった。紫煙も、それに巻かれて飛ぶ。ちょうどシノハラの髪に巻き付くように流れてゆくのを見た。

 「そういや、おまえさん歳いくつだっけ?」

 「成人してますよ」

 いい塩梅の距離感で必要な答えを返すあたり、彼は相当に頭がいいか、ものを察するのに長けているのだろう。

 それとなく感じる「やりやすさ」に、上出来だ、と答えて視線を逸らした。夕暮れは短い。きっと壁から外に出ても、壁が見えなくなるくらいに遠くまで行かなければ、あの時間をたっぷり楽しむなんてことはできない。

 紺色におちてゆく空の色と、煌々と輝く白色灯の下では、シノハラは陶器の人形のように見えた。


 煙草を片付け、窓を閉め、舘の所有車であるという事実で門衛を黙らせて行燈街へ入ると、景色は一変する。摩天楼の景色とは灯りの色も違うし、建物の生え方も違う。街を構成する要素のほとんどが異なっているから当然なのだが、昼間の行燈街と夜の行燈街の違いも大概だ。

 摩天楼の通りに人がないのは昼も夜も変わらないが、行燈街にあっては昼の閑散とした通りに対して夜の賑わいが激しい。舘の車なんてのは周知の事実であるし、それに乗っているのが江本であるというのもまた周知である。

 飯をよこせ金をよこせ、そうでなければ衣服をよこせとたかりはじめる路地裏の住人を無視して車を走らせる。

 いつもより数が少ないのは、シノハラの得体がしれないからだろう。まるで魔除けの置物のような効果にひっそりと感謝をしながら、江本は二本目の煙草に火をつけた。

 「……そういやおまえさん、自炊はするかい」

 シノハラはきょとんとして、するように見えますか、と言う。

 聞いた自分が悪かった、と両手を広げて紫煙を吐き、降参の意を示す。

 「苦手なものは?」――特に。

 「好きなものは?」――栗の実。

 初めての女と食事に行くときのようだ、と愉快な気持ちで、江本は晩飯の献立を考えた。贔屓にしている肉屋の姉ちゃんのところで、肉をいくらか買っておこう。それから家に置いてあるはずの野菜類を切って、包んで、蒸し焼きにでもして味をつける。

 まともな食事などしばらく摂っていなさそうなシノハラのことだから、色のきつめの野菜にした方がいいだろうか。

 一時の居候とはいえ、彼が出てゆくまでに病に倒れられたりとか、そういうのがあってはたまらない。せめて健康体にして送り出してやろう。逢澤との生活を経てずいぶん世話焼きになったのかもしれない、と思いながら、江本は紫煙でわっかをつくり、一息に吹き飛ばす。

 「ま、そしたら一旦家だな。家ついたらとりあえず部屋やるし、荷物も上げとくから、俺が買い出ししてる間大人しくそこにいてくれよ」

 シノハラは、少し不思議そうな顔をして頷いた。

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