趣味の合わない部屋-02
舘からせしめた真っ白いカードを使って、江本はシノハラと名乗った彼を連れて買い物へ出かけることにした。荷物はほんの少し、小さなコンテナにおさまるほどしかなかったし、それだけでどうやって生活をしていたのかも分からない。その生活が自分の家に招いた後も続けられるものなのかどうかもはっきりとしない以上、食品やらなにやらの必需品以外にも例えば服とか、そういうのを買い足す必要があると考えてのことだ。
彼は不愛想極まりないが、言葉にして説明をすると理解と納得が早く、非常にスムーズにことが運んだ。
唯一問題だったのは、救助した際には気付けなかったところにあった。彼は靴を履いていなかった、ということ。
「家の中で、靴は履きませんからね」
確かに聞いたのはこちらだが、と、微妙に納得しがたい気持で、江本は頷いた。まあ、俺もそうだわ。と。
であればなぜ聞くのか、とでも言いたげな、嫌味のない疑問の表情を見る。野良猫のような男は、つんとしている割には隙があるらしかった。
「……ま、いいだろ。どうせ絨毯の上しか通らんさ」
「貴方の家に風呂があるなら、構いません」
青年は、趣味が合わないと言った枕の柔らかさを最後にもう一度堪能してから、と態度で示すようにそこをひと撫でして、ベッドから脚を出す。つるり、というか、するりとした脚だった。バラすと高値がつくぞ、などと考えるのは、行燈街の人間だけだろう。
「絨毯がなけりゃ、かついでやるから心配すんな」
江本の腕を見る。肩を見る。頼りなげだな、と値踏みをしたかのように片眉を上げる。言葉にはしないが、顔を見つめていると大抵の感情は読み取れるような気がしてきた。
こんなに顔に出る人間も中々いない、と、感じて、考え直す。柴原などはもっと顔に出るが、顔に出る感情の種類が異なるのだ。彼は愛嬌というか、好感度というか、そういうものあるプラスの感情を表に出すが、この青年はマイナスの方を表に出す。
それほど長く生活を共にすることもなかろうし、それであれば、きっと愉快な日々になるのだろう。しばらくであれば面白がって接することができる。
「部屋から拾えた荷物はコンテナに積んである。車は例の上司のモンだが、とりあえずウチまで着けりゃあいい」
「何がありました」
「見てねえよ。一応配慮してんだ、こっちも」
道中は、車庫にたどり着くまで本当に絨毯ばかりだった。毛足が長く柔らかく、中にものが絡まっているようなこともない。手入れの行き届いた絨毯だった。
江本でさえ歩き慣れないものだから、彼の方も慣れていないのだろう。素足がふかふかのそれに沈んでゆくのをちらちらと見ては、また何でもないふうを装って一歩を踏み出す。そしてまた気になるのだろう、ちらりと見て、一歩。
自分の持ち物であったはずのない上等な衣服がするすると、触れていることも気にならないくらいの感覚で肌を撫でてゆく。あまり気にし過ぎてもいけない。それに、目の前の茶髪の男以外にも、もう一人彼より立場が上の人間がいたというのなら、彼に聞いたとしたって分からないかもしれない。
シノハラは考える。が、後ほど請求されるにしたって、今気に病むべきことではなかろうと判断する。この後自分が本当に保護されるのか、はたまた保護を名目に売り飛ばされたり、殺されたりするのかも分からない。生きているという前提で考え込むのはばからしく思える。
「……買い物、行くって言いましたけど、靴買うのに素足でこのまま行きますか」
こうして二度の問題発覚を経て、ようやく彼にサンダルが与えられた。どうにかなる、というお気楽な思考でもってとりあえず車に乗り込み、そこにあったものをちゃっかり拝借したというだけであったが、万事塞翁が馬というやつだ。
「風通しがいい靴ですね」
「気に入ったか」
「そう見えますか」
摩天楼の空調はきわめて徹底的に管理をされている、とはいえ、そろそろ冬も近いという時期に合わせて平均からは数度程下げられていた。靴屋を探して歩いている道中、吹き抜けるそよ風に肩をすくめて彼は言う。
「それにしても、風が弱い」
「そりゃ外よかな」
彼の服から、ほんのりと洗剤か柔軟剤のようなにおいがする。風に乗ってただよってくるそれは、舘の服からする匂いとも違うし、自分の服に使っている匂いとも違う。
下したてに、申し訳程度に水を通した。そんな無作為で無機質な匂いに思えたが、それが彼にはよく似合っていた。
舘の白いカードがあるから、いやがらせがてらにうんと高くていい靴を買ってやることも考えたが、結局江本は、彼の好みに任せることにした。江本があの部屋に入った時には既に着ていたワイシャツも、ジーンズも、上等だが癖のない仕立てのものであるから、何を選ばせても間違うことはない。
「おまえさん、道に迷うか?」
さあ、と言う彼の眉は、迷ったこともないが迷うような場所にいたこともない、と語っている。江本は笑って、とりあえず見守ってやることにした。
彼は、シャツの襟元から日焼けのない真っ白なうなじをのぞかせて、黒い髪を揺らして、服屋や靴屋、本屋、雑貨屋というような店を覗いては「ふうん」というように目を細めている。
ずいぶん前、一緒に暮らした少女がすこし大人になり始めた時に、背伸びをしてすましてみせていたのと似ていた。
「必要なものはとりあえず買っとけ」
「ずいぶんと好待遇ですね」
上司の金であることを伝えれば、遠慮なく買い物もできるだろうか、と、考えて、伝えるのをやめた。格好をつけておきたい気持ちもあるし、何よりあの男のタチの悪さを知らない青年が、あの男を善良と思いこんでしまうのは頂けない。
昔々に、聞いた言葉を思い出した。
心のうちにも、寝室でも、誰もいない湖のほとりでも、誰のことをも呪ってはならず、怒ってはならず、見下してはならない。空の鳥はその声を聞き届け、翼のある者が訪れるから。
それを言っていたのが誰であったかまでは、思い出せない。けれど、江本の素直な性根は、「空の鳥」にも「翼のある者」にも縁がないために、日々の上司への恨みつらみを堪えることはなかった。「翼のある者」が訪れるのであれば会ってみたいし、それが何のために訪れるのか、というのも知ってみたい。
青年の背を眺めながら、江本が考えるのはそんなことだった。
対して、シノハラの方は何もかもが目新しく思えて、考え事などする暇がなかった。頭の片隅に「記憶喪失」とか「記憶の混濁」といったような言葉は浮かぶものの、考え込むには至らない。
服も、靴も、バッグや装飾品も、本も、知っているはずなのに目新しい。
不思議な感覚だ、と、それきりで置いておくことにする。類似する話なんて聞いたこともないし、それこそ本屋で医療系の専門誌を読むレベルになるだろう。正直に江本へ伝えて、入院隔離なんてことになった日には退屈で死んでしまう。
思い出すべきことは、思い出す。
そういう風に考えることにして、シノハラは目ぼしい紺色の靴を見つけた。
「これを」
「サイズ見たか?」
足のサイズは、何ともならないものだろうか。
ふむ、と考え込んで「なら先に靴下を探します」と答えるシノハラの真剣な顔を見て、江本は何度目か笑った。
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