趣味の合わない部屋-01

 質は良いが趣味は悪い、と言わざるをえない、分厚いモスグリーンの絨毯とオレンジのチェストがある部屋で、江本の上司は語った。

 昔々の人々には、たとえ自らが不治の病に侵されたとしても、適切な極低温化で身体を保存し休眠状態にすることで、シンギュラリティを迎えた時代まで生き延び治療を受けることができるはずだ、という技術信仰があったという。

 「滑稽な話だが、健気な話でもある」

 けが人か、病人と思われる一般市民を前にしてよくもそんなことが言えたものだ、と、江本は溜息を吐く。

 「アンタと同じくらい、信用ならない話でもありますね」

 上司――舘という初老の男――は愉快そうに喉の奥で笑い、続けてひとさし指を立てる。よく見ろ、と言わんばかりの仕草に、江本は意地でも乗るまいと意図して、柔らかそうなベッドに身体を半分沈めた、黒髪の男を見た。

 「君には信用ができない。それは当然のことだ。君は彼らが求めたシンギュラリティの先の世界しか知らないのだから」


 そして、この世界では古いもの、旧いもの、進化の先へ至ることのできなかったそれらは淘汰される。


 舘の性格がすこぶる悪い、お世辞にも良いとはいえないことを鑑みると、彼の言葉がだんだんと、その黒髪の男のことを暗喩しているようにも思え始めた。

 彼が淘汰されるべきものなのか、淘汰を超えたものなのか。

 たしかに、同じ時代に生まれた同じ人間だからといって、皆が摩天楼に暮らせるわけではない。政府は望んでそうしているわけではないというが、選民だという声は、それこそ行燈街の片隅の酒場なんかでは定番の陰謀論だった。

 「で、なんでまたわざわざ俺にそんな話を?」

 「進化の先の世界で、その技術の恩恵に与ることのできる人間だ、と思われるよう、励みたまえよ、という親切心だ」

 舘はにっこりと笑う。よくできた造形の顔であるから様にはなるが、少しだって絆されてやるつもりのない江本にとっては、まったく無意味な表情だ。

 江本の溜息にも動じることのない彼は、そのまま、部屋を出ていった。いつの間にか目を覚ましていた青年と、彼の目の開いていることに気が付いて「あー」と無意味な声を発して正解の対応を探す江本を置いて。

 「邪魔をしましたか」

 青年は、起き抜けのかすれた声で小さく言った。

 整い過ぎるくらいに整っている空調の中にあっても、活動しきっていない身体は乾いてしまったのかもしれない。江本はオレンジのチェスト上から水差しを取り、チェストの中から包装されたガラスのコップを出して、滅菌済みの表示を確認する。

 「邪魔してくれて助かったよ」

 あのまま話を続けていたら、遠からず舘にからかわれ、堪忍袋の緒が切れていた。冗談めかして笑い、水を入れたコップを手渡す。青年は、ガラスの重量に慣れていないのか、一瞬戸惑ったような顔をした。

 ちらりと江本を見る。江本がガラスを包んでいたビニールの「滅菌済み」のラベルを見せ、水差しから直に一口水を飲むと、彼は依然少しばかり不満げな表情をしたままながら視線をコップに戻し、薄い唇をつける。

 運び上げた時に確認したが、胸はなかった。控えめだとかいうわけではなく完璧に無であった。さすがに股間をまさぐるようなことはしていないが、江本は、胸の無さを根拠に彼のことを男と仮定している。だが、その割には、睫毛が長い。指も細いし、節くれだってもいない。

 顔の造作は整っているし、声だって悪くはなかった。好みかそうでないかと言えば、前者には違いない。ただ、抱きたいと思うような色気はない。

 品定めをするような無粋な視線に気づいてか、青年はまたちらりと江本を見る。気にするなという言葉に素直に、また視線を戻す。ゆっくりとした動作。感情の乗りにくい表情。彼から受ける印象には温かみがないのだと、江本は気付く。なるほどたしかに、江本に人形を愛する趣味はない。

 江本の出した結論は、女の人形のような男、だった。

 「おまえさん、ここに来るまでのこと憶えてるか」

 静かな部屋で、江本は問いかける。片付いてしまった個人的な思索の結論を言葉に滲ませるほど、性格の悪い男ではない。舘と違って、という妙な意地のために、努めて静かに、穏やかに。

 彼はすうっと目を細めて、何かを考えているような表情をする。水をひとくち、ふたくち飲む間そうして、それからやはりゆっくりと口を開いた。

 「多少は」


 青年は、シノハラと名乗った。彼の記憶にあったのは、つい最近あの家に暮らし始めたこと、何かの声を聞いたこと、意識が途切れる前、冷却機からの排熱によく似た風を強く感じたことだけ。混濁しているのだろうそれらの記憶を話半分に聞きながら、江本はこれからの処遇をどう伝えるべきかと考えた。

 結果。ほとんど記憶がないようなものだから、素直に状況を伝えるのが一番手っ取り早いだろうと思い至る。

 「さっきおっさんが居たのは、見てたっけか」

 「目の前にいる人しか知りません」

 てめぇ俺のことおっさんだってか、と、食ってかかって許されるのは同僚か行燈街のクズ仲間だけだ。四十路と呼ばれる歳にもなれば、おっさんであることも認めざるをえない。

 溜息で茶を濁し、ついでに後頭部に手を突っ込んでわしわしとかき混ぜる。汚して迷惑が掛かるのは舘だ。問題ない。

 「居たんだよ、俺の上司。えらーい人なんだがまぁ性格が悪くてな。そいつの性格が悪いせいで、残念ながらおまえさんは目の前のおっさんの家に居候だ」

 新しい家か、帰る家が見つかるまで。そう付け加えて、江本は一旦、青年の表情を伺った。あまりにも嫌がるようなら、それを理由に舘に文句をつけて、撤回させるなり報酬を積ませるなりしようという魂胆があってのことだ。

 だが存外、青年の表情は変わらなかった。

 水を飲んでいた時と同じ顔をして、ひとつ頷く。

 「それなら、お言葉に甘えて」

 却って面食らった江本の目が丸くなるのを横目に、青年は白々しく付け加えた。

 「タダで引き受けるような人じゃないでしょう、貴方」

 「報酬は出てっけど」

 「それなら、貴方にとっては仕事でしょう」

 喉の奥に何かが張り付いたような、起き抜けのかすれたのとはまた異なるが不自由そうな声をして、青年は言う。

 幼く見えるが、意外と柴原なんかよりも年長なのかもしれない、と、江本は評価を改めた。少々野良猫じみた気配はあるが、落ち着いているし、それなりに悲惨な状況に置かれているというにに悲嘆にくれることもない。

 目を開いた瞬間とほとんど変わらない涼しげな顔をして、その瞬間よりも開いた目で、彼は江本を見つめる。

 「この部屋は、出ても?」

 彼は、江本の茶けた明るい双眸とは真逆の、真っ黒な目をしていた。所謂、吸い込まれるような黒だった。

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