ブラックアウト-03
行燈街を抜けると、風が強くなる。それまでは風防の役割を果たしていた現役の廃ビル群が消え、視界が開けるせいだ。壁までの距離はそう遠くはなく、多少ピントが心許ないが一望のもとに見渡せる。
吹き散らかされる前髪を口に入らないようにだけ押さえながら、
「こりゃまた絡まるな」
江本は呟いた。元々寝癖ついでに絡んでいた髪だが、極めつけに絡むと手がつけられない。前髪から襟足からまとめて切ってしまおうか。なくなることのない仕事を「なくす」よりずいぶん手っ取り早い、と、考える。
何度か見た晴天。何度か見た、草原。それから、どのくらい前だかに誰だか物好きが建てたらしき、手入れのされていない、建ちっぱなしの家屋。吹きつける、きつい風。おまけに伴う柴原も、何度か見たように風のせいで短髪を逆立て、怯える犬のようだし、フルフェイスのヘルメットによく似た装備で素性を隠した警邏隊の微動だにしないのも、いつも通りの光景であった。
厭な臭いがする。それだけを除けば。
「ゲームとかだと、こういう道ってすごい心躍るふうになってるじゃないですか」
呑気で不満げな柴原の声を、聞き流す。
「そうな。オープニングとかであれだろ、狭い汚いとこ走ってさ、んでこういう、風強い景色良いってぇとこでタイトル出てくる」
「それです。でも、実際なんていうか、だいぶ怖くて、自分ビビりすぎなんじゃないかって」
思うんですけど、怖いものは怖くて。
短髪が逆立っていたのは、風のせいだけではなかったのかもしれない。いつもは愛嬌を振りまいているぱっちりした目を細め、何か、例えばその恐怖の原因を探すかのように視線を遠くへ巡らせている彼を見て、江本は野生の獣が残存していたら、きっとこんな仕草をするのだろうと考える。
「生きてくのには、とっても大事な感覚さ。怖いものをな、きちんと怖いと思えなくなった奴から死んでいくんだ。脅しじゃねえぞ」
例によって茶化されて終わり、と想像していた柴原は、その言葉に何かしら、ひとつふたつの含みを感じて江本を見た。吹き散らかされたぼさぼさの髪――色が薄くて、柔らかそうで、きちんと手入れをすればいいのにとずっと思っている――、眠たそうな半分の目――本当に眠たい時はさらに半分になるから、今はまだ眠たくないということだ――、それから顎のまわりの不精髭――いつか立派なふさふさの髭になることを夢見ているのだ、と言われたのがいつだったか忘れてしまったが、あれは本心だったのだろうか――、どれをとってもいつも通りで、変わったところは見当たらない。
「察してほしい」のであれば、彼は何かを見せるだろう。そうでないのなら、その言葉の先を追及することもまた、柴原にとっては「怖いもの」だった。
江本は、柔らかい茶髪を風に残して、警邏隊の方へ歩いていった。彼らが人間なのか、それとも機械なのかを、柴原は知らない。
人間と機械の違いは、過去の有無ではないかと、柴原は思う。つまり、警邏隊に関してだけ言えば、彼らに実感を伴った「記憶」があるのならそれは人間で、彼らにあるのが「記録」だとしたらそれは機械だ。身体が金属だろうと、肉だろうと。
といっても、平常に生活を送る分には、機械は分かりやすく機械である。昔から言われてきた「不気味の谷」を越えないデザインというのは、技術の発展と共に機械にとってのアイデンティティへと昇華され、ヒトに近づくことをやめた彼らは、金属だったり、セラミックだったりの固有の素材を活かして機能美を作り上げるのを至上とするようになった。柴原は、そっちの方が好きだった。
金属製の光沢とエッジの効いた機械は格好いいし、セラミックは堅牢さのためにその軽く柔らかい素体を幾何学模様に立体化して、一本の柱さえ芸術にする。もう全部それにしてくれ、と思う。
「ぼさっとしてんなよ、シバ」
ルートの説明とかだろうか。警邏隊との打ち合わせを終えたらしい江本が、柴原の前まで歩いてきて、横腹を小突く。
「もう帰りたいっす」
泣き言のひとつくらいは許されてほしい。
「あの人ら、人間ですかね」
「見ての通りさ。背中は取られやしねえから」
安心しろ。江本は粗雑で適当な男だが、柴原の泣き言と弱音には優しい。つい数分前の恐怖に関するやり取りを思い出し、本当になにかあったのではないかと勘繰りそうになるのを、柴原は堪えた。
ついでに、気合を入れ直さないと、と自ら頬をぴしゃりと叩いて、思ったより痛いな、なんて涙目で、江本の背中に置いていかれないよう、一歩踏み出した。
「今日の講義、なんですか」
その昔、この都市が円形になった初めの頃には、行燈街とこの空間を隔てる門がなかった。あの門ができたのはつい最近の話で、それも、摩天楼からの出資で「有事に備えて」作られたものだという話を、江本は「講義」の材料に選んだ。
散歩中の暇つぶしに、と始めたことだったが、すっかり柴原の気に入ったらしい。江本の方も、繰り返すうちに段々と、ネタの準備をすることが楽しくなっていた。読書をしながら。時事ネタを拾いながら。これ絡みは柴原が好きそうだとか、そういうことを考える。
「そもそも門の役割ってのは、内側を安全に保つことだったりする。これは分かるだろ」
「行燈街から摩天楼行くとき、やたらチェックが厳しいのがそれですよね」
「そう。危険物お断りってワケだ」
優秀な生徒で嬉しいよ。前を行く警邏隊の背を見ながら、動くものがあればそちらへ視線を動かして、ついでに軽口も叩き、江本は歩く。柴原には、とりあえず満遍なくきょろきょろしておくのが精いっぱいだ。おまけに会話をすると、きょろきょろすることさえままならない。
器用になりたい、と話した時に、無理だと笑われたのを思い出す。笑った当人は呑気なものだった。
「安全にしなくちゃならない内側、ってのが、当時は摩天楼だけだった。行燈街自体、摩天楼から追ん出された人間が作ったって話があるくらいだ」
外があって、壁があって、真ん中に摩天楼がある。壁の内側で、人が住んでいるところを行燈街。それ以外を壁内。そういう呼び方をしていた時代ってのは、お前が考えてるほど昔の話じゃない。
行燈街と壁内の区別ってのがないのは、人が住んでるかどうかしか違いがなかったってことと、もうひとつ。元々壁内にも人が住む想定だったってのが、でかい理由なんだとさ。壁の外が怖えぞって話はガキの頃なんかにも聞かされたろうが、当時行燈街に行った奴らもたぶん、そうだった。
怖いものからは離れる。さっき言った通り、生きる術だからな。……とまあそんなわけで、さっき通った門ができたのはつい最近だ。つってもシバ、お前が生まれるよりは前。
作った理由は知らねえが、色々噂はある。
ひとつ、行燈街の人間も、守るべき内側の人間だってことで認められた。そんな判断ができるような人間が、摩天楼にいるかって話だが。
もうひとつ。壁の外のアレが、中に入ろうとしている。入ってきても行燈街で止めてやろう、って魂胆だとしたら、摩天楼の性格の悪さ的には納得だわな。そもそも外のアレのことなんて誰にもわかんねえのに、どーしてそう思える、って問題はある。
「……て、ワケで、どうだい。気は紛れたか?」
ひとつ、ぼろ家を通り過ぎ、江本は柴原を振り返った。ひえ、と怯えた顔をした彼は、紛れたけど紛れてない、などと愉快なことを宣う。
「だ、って、今の完全に怪談じゃないですか」
しかもだいぶんヤバいやつ。
直截な言葉に笑う。素直というのは取り柄だし、ばかというのも時に取り柄だ。このまま何事もなく柴原の反応を笑って、楽しんで終わればよいのにと思った矢先。通り過ぎたぼろ家の雨戸が閉まるのが見えた。
人がいる。こんな場所に?
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