ブラックアウト-02

 人間というのはおおよそ「そうである」か「そうでない」の二つに分けられ、どうしようもない一部が「どちらでもない」に行き着くものだと、江本は考える。こと散歩に関していえば、江本は「散歩を好まない」方の人間であったし、隣を歩く柴原は「散歩を好む」方の人間である。

 シノハラが花火のような音を聞いた頃、彼らは例の「新居」のほど近い場所を散歩していた。

 もちろん、趣味などではない。巡回警邏、という固ッ苦しい名前のついた、れっきとした仕事であった。

 散歩を好まない方の人間である江本の表情は、その割に気楽に緩んでいた。立ちっぱなし、歩きっぱなしでは腰が痛くなるが、散歩と違って警邏には、それらのデメリットを鑑みても余りあるほどのメリットがある。


 質だけは良いが趣味の悪い部屋で、江本は朝からを振り返る。きっかけが、どこにあったのか。

 いつも通りの時間に出勤をして、得体のしれない上司と、クソ神経質な同僚の視線をかわし席に着く。端末の電源を入れて、起動を待つ間にフロア内のベンダーにチップをかざし、とびきり甘くしたブラックコーヒーを啜った。起動した端末で日程の確認をし、警邏予定が入っていることに内心で笑う。そうしている間に、何を嗅ぎつけたのだか、江本のことが心底嫌いなのだろう人間が現れた。

 「怠惰は裏切りだぞ、江本」

 かみきりだか、かまきりだか、昔々に何かで見た六つ脚のことを思い出す同僚、静間からのありがたいご忠告に手を振って応え、行燈街で仕入れたインク臭い情報誌に目を通す。

 金にもならない情報を流し見、金を産みかねない情報を頭の中に叩き込む。誌面の中には、質のいい肉屋をピックアップした特集と地図があった。

こんなことなら、もう一冊買っておけばよかった。そんなことを想いながら、行燈街一帯の簡素な地図に、直近の検挙事案を赤インクで書き込んでゆく。地図にない小道は、だいたいの位置でいい。

地図は、ほどなくどの路地にも最低一つの赤印、のありさまに落ち着いた。これならば、新しく増えても増えなくても、気にしている人間にしかバレやしない。そう判断して、江本は見た目ばかりが真っ黒いコーヒーを飲んだ。今日の警邏は、行燈街の先へ行こう。


 警邏予定には、直属の部下にあたる柴原もいた。他の誰かならいざ知らず、柴原ならば、時間が近づくと必ずこのフロアに上がってきて江本を探し、見ていなくとも分かるほど元気に、勢いよく、江本のジャケットを差し出して言うのだ。

 「今日も、よろしくおねがいしますっ」

 そして、江本はたいていこう返す。

 「はいよ、こちらこそ」

 これは決して嫌味ではなく、そして謙遜でもない。柴原は若く、お世辞にも優秀であるとは言い難いが、時報としてとか、有事の際のセンサーだとか、そういう意味では非常に頼りになる。おまけに、静間から離れる口実としても、都合がいい。

 大柄な柴原の肩を叩き、突き刺し咎めるような静間の視線を襟足で受け流して、江本は、ジャケットに袖を通した。

 何かのゲームの所謂街キャラのように、決められたルールに従って動く門衛をやり過ごす。摩天楼と行燈街の間に立つ門衛は、特にしつこい。初めてではないというのに、柴原が「主任、ああいう人嫌いですよね」などと子供っぽく笑ったくらいだ。もちろん帰りの方が面倒なのだが、柴原の言葉を借りれば「嫌い」な人間の前をただ通るだけ、というのもまた、気苦労の絶えないものである。

 門衛と、行燈街の路地裏に潜んだスリと、どちらが「好き」かと言われれば後者に決まっている。

 「主任、ほら行きますよ!」

 このままどこぞへ逃げ出してやろうか。そんな思いを込めて天を見上げる。

「白目、やめてください」

 仮にも立場のある人間として、やる時はやるし、やらねばならぬこともまたやるのだと示さなければならない。江本はそんな発破を己にかけて、真っ白く傷ひとつない、つるりとした能面の門の前に立った。

 その門の裏側は、煤け、錆びて汚れて、傷だらけになったうえに落書きまでされている。


 薄暗い、江本にとっては馴染みの景色。行燈街独特の――というより、摩天楼では決してお目にかかることのできない――何かも分からない肉の焼け焦げる匂いや音、取っ組み合いの喧嘩、酔っ払いの酒と、ごわついた肌の情婦や行き倒れの病の臭いが、最後の門の開くと同時になだれ込んできた。

 背後の門は既に閉まり、引き返すことはできない。今更引き返そうという気もないが、柴原の方がしきりにそちらを気にしている。

 「シバ、実地試験だ」

 頼りなげに丸まった大きな背中をばん、と景気づけにひっぱたいて、江本は笑った。埃臭い。土臭い。垢臭い。静間などは摩天楼のゴミ溜めと形容する行燈街を、まっすぐ一本道、通り抜ける。それが江本と柴原の実地試験だった。

 「今日の予定は?」

 「次の門で、警邏隊の方々と合流予定です。別働の予定があったようで、なので、行燈街のうちは自分と江本さんの二人だけですね」

 そりゃあ、予定じゃねえや。適当に茶化してやりながら、江本はのんびりと歩いた。

 あの店が潰れている。あそこはまだやっている。あっちの看板はネオン管が一本切れていて、奥の方には見慣れない面白そうなのが一軒あるが、そこへたどり着くまでに吐瀉物と排泄物がひとやまありそうだ、というふうに。

 まだ、この街に陽は入らない。

 そういえば、今朝情報誌で見かけた肉屋はどのあたりだったか。

 たいてい、江本がそうして適当なことを考えて、適当に柴原との会話を茶化して、よそ者の看板を背負って歩く柴原が刺されないことを祈っている間に一本道が終わる。それから、門衛に声を掛けたり警邏隊と合流をしたりする前に、柴原の試験の結果が返されるのだ。

 「で、どうだった?」

 「今日は大丈夫です!」

 柴原はしばらく己のカバンの中でごそごそとやった後、嬉しそうな顔をして、財布を取り出した。

 「前回教えていただいた通り、ダミーを入れておいたんです。ちゃんとそっちで誤魔化せましたね」

 何度も繰り返されたこの試験も、やっと終わりか。とうとう、達成することができた。これができれば一人でも歩けるな、という初回の江本の言葉を真に受けているのだか、はしゃぐ柴原を見ていると、江本には二つほどの感情が去来する。

 「中身は?」

 「え」

 一つは、いつかうっかり刺されて死ぬのではないのか、という心配。財布の本体が残っているからといって、中身も無事であるとは限らないということになぜ思い至らないのか。

 「いくら入れてたかだって、憶えてねえんだろ」

 「う」

 一つは、彼のような人間がそのまま、真っすぐに、生きてゆける社会であればよいのに、という老婆心。野犬のようだった少女もいれば、飼い犬よりも懐っこい柴原のような大人の男もいる。理不尽は百も千も承知の上で、せめて彼が育った環境が、今後もあり続けることを願うような。

 「中身はいい。何も食えねってことにでもなったら払ってやるから。……それで生きてる奴らだからな、取られたお前が悪い。今日のも、勉強代だな」

 はい、とおとなしくしおれる柴原を見ながら、それまでの苦労を思い出した。柴原も真面目であるから、最初は「そんなの許していいんですか」だのと喧しかったのだ。

 静間ほど拗れても捻くれてもいないうえに、食欲には勝てないチョロさがあるかわいい部下でよかった、と、思う。

 江本は、また柴原の背中をひっぱたく。ばね仕掛けのように顔を上げた彼を背に伴って、先ほど通った門のそれよりはうんと気楽な友人じみた門衛に、先へと進む許可を取った。

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