alone in the sky
魚倉 温
ブラックアウト-01
この空を、鳥が飛んでいた時代があった。
それが今ぼくらのいう鳥ではなくって、もっと自由で、もっと高いところにいる別な鳥だったのだということは、およそこの都市で暮すもの、およそこの都市の外郭に暮すものにとっては、当たり前の知識だ。
その鳥に夢を見ることはなかった。
その鳥に憧れることもまた、なかった。
だけれど、その鳥を思い描くことは、きっと誰しも一度は経験したことがあることだろう。幼い頃。寝物語などを聞かされた晩に、それを夢見ることがあったように。
新居の床に寝そべる、男がひとり。
べったりとした重い黒髪に、同じ色の細い眉、長い睫毛。床に散らばった髪が後頭部に躙られるのも気に留めず、冷たい板張りの感触に身を固くすることも、痛みを感じているということもなさそうな、ゆったりとした脱力感。
部屋には目立った家具がなく、段ボール箱が隅にいくつか置いてあるだけ。けれど、シノハラがその新居に住まい始めてから、実に二週間は経っていた。使わなくなって久しい咽喉からは、今日もひとことの声も出ない。
シノハラは未だに、その「家」に暮らしているということが実感されなかった。
転居前からその調子であったものだから、あらかじめ家具を購入しておいて運び込む、ということもなかった。転居してみればモノのなさに不便を感じるなどして購入することもあるかと思ったが、意外なことにまったく不便を感じることもなく、であれば必要なかろう、とここまで来た。
とは、言うものの。ごろり。寝返りを打った拍子に視界の邪魔をした前髪をはらいながら、考える。そんな言語化のたやすいものが原因であったのなら、対策のとりようもあろうというものだ。思うに、それ以外の何かが、自分がここに暮すことを阻んでいる。そのせいで自分はここに暮すことができず、住むに留まっているのだ。
日が暮れると眠り、朝日の近いうちに外へ出て、日が隠れる前に、冷え込みから逃げるように帰宅する。封を開けたひとつっきりの段ボール箱の前に座って、板間の冷え込みを尾骶骨のあたりで感じながら作業をする。転居の前から、彼の一日は変わらなかった。
街の外れにある家だから、買い物こそできないが食事には困らない。人の少ないあまりに敷地という概念が欠損した、ゆえに誰の手も入っていないシノハラ宅の周囲には、草花や樹が生き残り、時に花をつけ、実をつける。彼らの持て余したそれを食事とするのも、転居前と変わらない。
日のあるうちには摩天楼が見え、日が沈めば行燈街のあかりがちらつく。家からの景観だけが、転居前とは異なる生活だった。
だから、それに気付いた三日前、雨戸を閉めた。カーテンなんて持っていなかったし、買うとなったら少なくとも行燈街までは出向かなければならない。いずれ通るべき道だとはいえ、今はまだその時ではないと思いたかった。体内でチクタクと時を刻む無形の時計は優秀で、一面だけ、外を向いた窓だけが雨戸なしに残っている状態でも、時間の流れを判断するのに困ることはない。
あともう二週間もすれば、今度こそこの「新居」での暮しに馴染むことができるだろうか。すっかり真っ暗になった部屋で、シノハラは目を瞑る。
布団も、毛布も、何にもないが、気にすることではない。明日は栗の実を探しに行こう。それから、水っぽい果物の類もあれば喜ばしい。蛇口から出る鉄とゴミ臭い水には辟易したから。
眠ると、いつも同じ夢を見る。同じ声が、同じことを、何度も繰り返し告げてくる。それから、その声は勝手に苛立って、シノハラに向って手を伸ばす。ただそれだけの陳腐な悪夢は、新居に呼ばれるように現れた。
またか、という感慨と共に、目を覚ます。気付いた時には眠っていた、というような曖昧な感覚頼みの生活にあって、あの夢を見たということは、少なくともその間の自分はたしかに眠っていたのだということの証明になる。寝ぼけ眼をこすり、あくびをし、シノハラは、手の甲についた睫毛をつまんで窓の外へ捨てる。
よく晴れた空だった。睫毛なんかを捨てようとして見たのがもったいなく感じる。朝というのは、やっぱりこうして空を見なければ始まらない。
視線の先、ひと続きのはずの空の先にいる家族を想う。近頃は冷えるようになってきた。ヒタキは痩せていないだろうか。ミナミも、ヒタキにかかりきりのはずだ。カラスは今でも「ヒタキのため」に弱るミナミを嫌って、やんやと構い倒したり、我儘を言ったり、石を投げたりしているのだろうか。
空が翳る。
こうなると、ヒタキはますます弱ってしまうだろう。華奢な身体を横たえて細い呼吸音を立てる彼女の姿は、何度か見たことがあった。そんな彼女を背負ったミナミが、晴れ間を探して歩きまわっている必死な顔も、見たことがあった。
カラスも、シノハラも。まとまりようのない単一の個体をどうにかまとめ上げようと腐心し、みなの家になろうとした母は弱く、父は彼らを捨て、長兄がすべてを背負い込む。そういう家族だった。
他の「家族」というものを知らないせいかもしれないが、シノハラはそれでも、その不和と矛盾と軋みを承知であの家族が好きだったし、今でも彼らの幸せを願っている。できることなんてないに等しく、せめて、空の翳りが晴れるようにと祈る、そのくらいだけれど。
「俺は、おまえのそういうところが大嫌いだ」
耳元で、声が聞こえる。その瞬間、翳った空が視界から消える。それどころか、遠くの景色も、窓のすぐ下にあったはずの広葉樹の枝葉も、振り返った先の段ボールも見えない。この世で最も黒い塗料で眼球を塗りつぶされたように、視界が潰れた。
せめて声の主を探そうと耳を澄ませると、代わりにどよめきとざわめきが脳にあふれた。ごうごうと嵐の吹き荒れるような音、憎しみのあまりに零れた呻きのような低い呪詛、祭りの日に浮かれた人々の騒ぐようなささやきの塊。そういった言語化しがたい、音を伴った現象が音だけになって、シノハラを前後不覚に貶める。
見たことのない景色、聞いたことのない音であったが、何よりシノハラを困惑させたのは、それを「知っているはずだ」と感じる部分があったことだった。考える。考える。その既視感は、「そういう世界に生きていた」人間に対する既視感ではないのだろうか。
泥沼の奥に足を取られ、沈む一方の無力な獣のように。助からない、あがくことができない、それがあんまりにも明確であることを自覚し薄れゆく意識の中で、シノハラがその「人間」を思い出しかけたその時、ばん、と花火の上がるような音がした。
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