第一〇章 許されるのなら、泡沫の世界で
暖かな目覚めだった。
ベッドから起き上がった佑一は、カーテンを開けて朝だということが知った。部屋を出て一階に降りると、悠介と美佳がいて、既に朝食が出来ていた。
「おはよう」
「ほら、冷めないうちに食べて」
朝食を済ませ、身支度を整えて学校に向かう。途中、友達と合流した。他愛ない話をしながら一緒に歩いた。
学校で受業を受け、放課後には友達と遊びに行く。部活には入っていなかった。それでも良かった。数人の友達と駅前で暇を潰し、他愛ない話をしていた。
夜になり、佑一は家に帰った。悠介と美佳と、今日の出来事を話した。夕食を済ませ、暇を持て余し、明日を待つように眠りについた。
こんな日々が続いているような気がするが、それはそれでいい。ただ生きるのも悪くはなかった。
暖かい日が続く。カーテンを開けて朝がきたことを知る。一階に降りると悠介と美佳がいた。
「おはよう」
朝食と身支度を済ませて学校へ行く。授業を受け、休み時間に友達と他愛ない話をする。
■■■■。
時々、耳鳴りがした。
ふと、佑一は窓際に目を向けた。教室の窓際、一番後ろの席に座っている女子生徒。背は低く、華奢で折れてしまいそうな細い体。とても色白で、透き通るような白髪を持つ少女。姿勢良く本を読んでいた。その本はボロボロで、とても大事そうにしていた。
不思議なことに、クラスメイトなのに話したことがなかった。そもそも、あの女子生徒と一緒だったことすら忘れていたような気がする。
友達に話しかけられ、佑一は顔を戻した。
何でだろう。とても大事なことを忘れている気がした。
穏やかで暖かい日が続く。まるで季節が変わらないようだった。朝を迎えたことをカーテンを開けて知る。多分、呼ばれるだろう。
「佑一、起きてる?」
そう思うと自分の名前を呼ばれたので一階に降りる。
「寝坊よ、佑一」
「休みなんだからいいじゃないか」
「出かける予定をしていたじゃない」
悠介と美佳がいる。朝食が並べられていた。佑一はそれを食べ、身支度を調える。
今日は休日で、近くのショッピングモールまで出かけた。悠介の運転する助手席に美佳が座り、後部座席に佑一が座った。ショッピングモールに到着。三人一緒に移動した。美佳の洋服選びに付き合い、若作りしてるだの色が派手だの男二人が好き勝手言うが、美佳は気にもしていなかった。悠介はアウトドアショップで、キャンプ用品を見ていた。新作のトレッキングシューズが出ていて欲しそうにしていたが、「コレクションが何足あるの?」と美佳から釘を刺されて諦めた。それを見ていた佑一は、密かにそのシューズを欲しいと思った。
佑一は書店に用事があった。新しく好きな海外作家が出来たので、その本を探していた。過去作を探し、目当ての本を見付けて手に取った。
カウンターに持っていこうとした時、商品棚のある本に目が止まった。商品とは言えないほど崩れ、汚れた本。何の本かわからない。自然に手が伸びてページを捲る。何年も読み続けたのか、手垢に塗れていた。
「『ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているのかを』」
口ずさんだ言葉は知らなかった。それなのに、どういう訳か心が締め付けられる。そもそも、何故そんな言葉が出てきたのだろうか。
■■■■。
また耳鳴りがした。最近、耳鳴りが多い。
「佑一、欲しいのはあった?」
「ああ」
美佳に呼ばれ、本を戻して会計を済ませた。何か大切なことを忘れている気がする。
■■■■。
学校で受業を受ける。休み時間に友達と話す。放課後には暇を潰す。家に帰り、悠介と美佳と雑談しながら食卓を囲む。次の休日はどうしようか、どこかに出かけようか。それとも家でリラックスするのか。そういう日々が続いている。悪くない日常だ。なのに、どこか違和感を抱く。
■■■■。
「どうした、佑一」
「どこか上の空ね」
二人の言う通りだった。「なんでもない」と部屋に戻る。ベランダに出て夜空を見上げる。心が空っぽだった。理由はわかっている。わかっていた。夜なのに、暖かかった。
■■■■。
顔を下にすると、あの白髪の少女が立ってこちらを見ていた。ボロボロの小さな本を両手で大事に持っていた。何か喋っているようだが聞こえない。佑一は少女をじっと見る。
■■■■。
言葉がノイズに掻き消される。耳鳴りに潰される。駄目だ、聞くなと言わんばかりに酷くなる。
「佑一。入るわよ?」
ノックした美佳が部屋に入る。まるで彼女を見るなと言わんばかりに。
少女は続ける。佑一も、美佳の呼びかけに応じず見つめ続ける。
■■■■。
■■■■。
それは自分を呼んでいるようだった。
「────梨絵」
名前。誰の名前だろう──彼女の名前だ。
とても大切な気がする──気がする、じゃない。大切なんだ。
佑一の意識がふっと落ちた。瞼が鉛のように重くなった。
■■■■。
最後の瞬間まで、それは続いた。
──ああ。そうだよな。
──もう、いいよな。
佑一は目を覚ます。朝なのだろうとベッドから起き上がり、カーテンを開ける。いつもの朝だ。暖かい、優しい朝。ここ最近、雨も降っていない気がする。悲しいことがなくなった気がする。それでは駄目なのに、許容してしまった。
「本当に、優しい」
部屋を見回す。机に見慣れない物があった。拳銃だ。エアガンに興味がないのに、どういう訳か懐かしく思った。手に持ってみる。
「HK45T拳銃」
知らない筈なのに名前が出てきた。マガジンもあり、弾丸が詰められている。マガジンを差し込んでスライドを引き、弾丸を薬室に送り込む。使い方なんて知らない筈なのに、昔から知っていたように手慣れていた。
ベッドを見ると、ショットガンがあった。
「ベネリM4ショットガン」
いつの間にかショットシェルを持っていた。二本ずつ、流れるように装填する。この装填方法をたくさん練習した気がした。
本棚を見ると、アサルトライフルが立て掛けてあった。
「HK416Dアサルトライフル」
マガジンを差す。使い慣れた道具のように持ち、構える。ショートスコープを覗く。
いつの間にか、部屋にはプレートキャリアやナイフ、トマホークなどの装備が散らばっていた。どれも血で汚れていた。
それらに触れていると、装備を身につけた自分が、見知らぬ人達と一緒に、見たことがない化け物と戦っている映像が頭に流れてきた。ひとりぼっちだった自分と一緒に戦い、いなくなって、またひとりぼっちになって。悲しい戦い。思わず目を背けたくなった。
「背けるな」
強い口調で、己自身に告げる。
「見ろ。見るんだ。それが俺なんだ。本当の俺なんだ。こんなところで、こんなことをしてる場合じゃないんだ」
「けど、けど──」
「わかってる。辛い。怖い。痛い。だけど、それは俺自身が決めたことじゃないか」
まるでもう一人の自分がいるかのように、自分に強く当たる。そうでもしないと挫けてしまいそうだった。泣いてしまいそうだった。
「あの時、決めただろ。誓っただろう。だったら立て。起きろ。彼女達の為に」
「佑一、起きてる?」
一階から美佳が叫ぶ。もう一人の自分は消えてしまった。
「…………わかってる。わかってるよ」
アサルトライフルを置き、部屋を出る。一階に降りると悠介と美佳が食事をしていた。
「酷い顔だな。寝れなかったのか?」
「休みだからって、遅くまで本を読んでたんでしょう。体には気をつけてね」
二人の会話を聞き流し、食事を一緒にする。一口、食べた。
味がしない。
空しい。
■■■■。
■■■■。
耳鳴りが酷い。
■■■■。
起きている筈なのに、起きろと叫んでいるように。
■■■■。
■■■■。
■■■■。
「もういい。もういいんだ」
食器を置き、佑一は満足したように口を開いた。
「本当は気付いてたんだ。ここが、自分が望んでた場所なんだって。でも、今更こんなことをしなくてもいい。もういいんだ」
二人はなにも言わない。
「父さんと母さんは死んだ。俺を守って死んだ。この世界は夢だ。夢はいずれ覚める。覚まさなきゃいけないんだ」
いつの間にか二人は消えていた。そればかりか、今まで家にいた佑一は白一色の世界に立っていた。寝起きの姿ではなく、IDEIの制服を着て、使い慣れた拳銃を持っていた。頭から血が流れているが、気にすることはない。拳銃のスライドを少し引き、銃弾が装填されていることを確認。夢だとわかっていても、これが彼の世界で、彼の日常だ。
この世界は果てしない夢の世界。自分が望んでいた本当の世界。それは叶わないことを知っている。だからせめて、夢の世界でただ安穏で待つような日常を求めた。
これでいい。夢は覚めなければならない。
自分は大切なものをなくした。なくし続けた日々だった。だが、今ある大切なものはなくさない。
守る。
守る為に、夢から覚めるのだ。
戦い続けるのだ。
「行くのか」
佑一は振り返る。悠介と美佳が立っていた。柔らかな笑みを浮かべた表情ではあるが、どこか悲しげだった。
「行くのね?」
「ああ。…………なぁ、父さん、母さん」
「どうした?」
「──このまま続けても、いいのかな?」
ふと出た本音。佑一が抱き続けてきた疑念。
「二人の約束を果たそうとやってきた。だけど、だけど……どうすればいいのか、わからなくなってきたんだ。俺なりに考えて、動いて、やれることは全部やってきた筈なんだ。それなのに、俺は何一つ守れなかった。死なせてしまった。壊してしまった」
悲痛な吐露に両親はずっと耳を傾けていた。
「挫けてはいけない。諦めては、いけない。泣いては……泣いちゃいけないって、わかってる。泣いちゃいけないから進んできたんだ。止まらずに歩いてきたんだ。それなのに進めば進むほど大事な人が死んでいくんだ。壊れていくんだ!」
戦って、戦って、戦って。
殺して、殺して、殺し尽くして。
得たのは満足でも高揚でもない、怒りや憎しみでもない。悲しみしかなかった。
ただ殺して、殺されて、壊して、壊されて。
自分をも殺して佑一は歩いた。進んだ。突き進んだ。心も体も殺し続けて佑一はやってきた。それなのにこのザマだ。訳がわからない。自分が大切だと思ったものが死んで壊されていくことが、堪らなく悲しい。恐い。痛い。辛い。もう嫌だと投げ出したい子供のようになりたい。だけど投げ出せない。どうすればいいのかわからない。
泣くことを我慢してきた。
けれど、もう、限界だった。
「俺のやってきたことは、間違ってたのかなぁ?」
弱音を吐いた我が子を、悠介と美佳は優しく抱き締めた。今までよりずっと優しい抱擁だった。
「佑一は頑張ってきた。たくさん傷ついても、決してやめようとしなかった」
「大事な人を、愛した人を守ろうと、佑一は頑張ってきた。それは私達が知っている。佑一は誰よりも頑張ってきたもの」
「ああ……ああ……!」
「言っただろ。父さんと母さんは佑一の味方だって。佑一が信じる道を行けばいい。今は辛く、厳しいだろう。だけど最後には、必ず、佑一が望んだ結果になる」
「私達の為にするのは嬉しい。だけど、佑一が佑一の為にすることの方が、私達はずっと嬉しいの。安心して、大丈夫よ。勉強も出来て、スポーツも出来るんだから。大事なものを守ろうと必死になれる、とても良い子だから」
「佑一は、俺達の自慢の子供だから」
「佑一は、私達の自慢の子供だから」
「……うん、うん。ああ、ああぁ…………うああああ……ああああぁ、うわぁああああぁ……!」
耐えきれず、今まで押し留めてきた感情が洪水のように流れ出てきた。泣きじゃくる佑一は両親にしがみついた。温もりは確かに両親の温もりだった。もう我慢しきれなくなって、赤子のように泣いた。
ずっと孤独だった。二人が死んだ時から、ずっと。自分を助けてくれた人、支えてくれた人がいても、佑一の空っぽになった心を埋めることはできなかった。埋めようとして、なくそうとして、懸命に努力してきた。それこそ死ぬ勢いで。血反吐を噴き出すほどに追いつめて。なのに、いなくなってしまった。
どうしていいかわからなくなった。自分の意味が、存在が、わからなくなってしまった。そんな時に梨絵と再会した。栞や、真由や、鐘ヶ江高校の面々と出会った。
とても楽しい日々だった。銃を握る非日常の世界だが、佑一にとってはかけがえのない日常の世界なのだ。
だからこそ──
「────ありがとう。ありがとう。もう大丈夫。大丈夫だから」
目を泣き腫らして佑一は告げる。もう充分だと手を離した。
■う■■。
ゆ■■ち。
ゆ■いち!
耳鳴りとノイズは消え、鮮明に聞こえてきた自分を呼ぶ声。
彼女達がいる世界に行かなければならない。
「行くんだな」
「ああ」
「もう行くのね」
「俺を呼んでる。行ってあげないと」
わかっていた。今までの耳鳴りが自分を呼ぶ声だと言うことは。それだけじゃない。本当の世界では自分を待っている者がいるということを。
「ごめん。本当にごめん」
「謝るんじゃない。行ってこい。お前の大切な人達なんだろう?」
「うん」
「佑一。その人達を大事にしなさい。これから出会う人達も。これまでの人達も。そして、貴方が本当に愛せる人も。その人が見つかったら紹介してよね?」
「うん。紹介する。話すよ」
離れたくない。もう二度と離したくない手の温もり。だが佑一は離す決意をした。二人もわかっている。だからこそ、笑顔で見送る。
悠介と美佳がいる世界が白一色に対し、佑一がこれから向かう世界は黒一色だった。何が起こるかわからない、恐怖で塗り尽くされたような世界。その世界に佑一は戻る。
「頑張れよ」
「頑張って」
「ありがとう。父さんと母さんの子供で良かった」
別れを告げ、佑一は後退る。
直後、体が落下していった。崖から落ちたような感覚。
恐れはなかった。二人の顔が見えなくなるまで佑一は見続けた。鼻を啜った。血と涙の味がした。
いつの間にか黒一色の世界になっていた。だんだんノイズと耳鳴りが酷くなってきた。体に激痛が走る。骨が軋む。心臓の強い猛りを感じる。生きている感覚だ。
自分はまだ生きている。戦える。
ゆ……いち。
ゆういち。
──佑一!
なんだか懐かしいな、と思い出に耽る。力強く握っている手を離さず、佑一は目を見開いた。共に戦って、共に死ぬと約束した少女がいた。
夢はいずれ覚める。覚めなければならない。
現実で生き、死ぬ為に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます