第五章 祈りの言葉 2
◇
午後の授業を終え、学校に戻った。梨絵も一緒に戻り、教室でホームルームを受けた。
実は教室で受業を受けたことはなく、ホームルームも数回しかいなかったという。おかげで梨絵は注目の的になりっぱなしで、一緒のクラスだった真由に守られるようにしていた。
ホームルームが終わって放課後。生徒達が帰宅したり、部活の準備をしたり、または街の警護巡回の準備をする為に教室を出て行く。
「梨絵はこの後どうするの?」
真由が梨絵に尋ねる。
「佑一が迎えに来るって言ってた」
「何かするの?」
「基地に行く」
「そっか。私は友達の部室で勉強教えてもらうから、佑一が来るまで大人しく待ってるように」
まるで姉のような言い方で、梨絵は静かに頷いた。ここ最近、少なからずコミュニケーションはとれている。その中でも真由は積極的に話しかけてきた。おかげで、梨絵は真由と会話するようにまでなっている。
真由が教室から出て、他の生徒達もいなくなる。やがて教室に残っているのは梨絵だけだ。時間も経ち、普通教室棟からも生徒の気配が消えていく。
三〇分が経過したが、佑一はまだ来ない。仕事があって遅くなるかもしれないと言っていたので、梨絵は聖書を読みながら待った。
待っていることは苦痛ではなかった。以前からそうであり、自分の記憶がなくなる前から慣れているように思えた。それに、数回しか教室に来なかった。自分の机がどこか新鮮に感じられ、触れてみたかった。冷たいし、硬い。だが懐かしい。小さい頃、これに座っていたような気がする。
「里林さん」
呼ばれて振り向くと、入口に四人の生徒がいた。見たことない人間だったが、うち一人は同じクラスだった覚えがある。
「三上先生が呼んでるから、ちょっと来てくれない?」
佑一の名前を聞いて反応を示す。しかし迎えに来ると言っていたので不審に感じたが、目の前にいる生徒と真由が話していたところを見ていたこともあり、警戒することなく着いていった。
廊下を歩いていき、着いたのは北側の一番端にある教室だった。促されて入ったものの、そこには佑一がいなければ誰もいなかった。
状況が掴めずに振り向いた瞬間、何かの発射音がして、腹部に強烈な衝撃が与えられてその場に倒れた。
「あ、ぐぁ……⁉」
蹲る梨絵の前に、ゴム弾が転がっていた。
見ると、生徒の一人が拳銃型の模擬銃を持って笑っていた。そこでようやく、ゴム弾で撃たれたのだと理解した。
「マジでついてきてやんの。馬鹿じゃん」
「うわ、痛そ」
「ウケる」
「何で撃ったの⁉」
真由の知り合いの生徒は叫ぶ。
「ちょっとからかうだけって言ったから連れてきたんだよ! それなのにこんなこと……!」
模擬銃を持つ生徒はうんざりしながら言う。
「バレないように腹に撃ったでしょ」
「馬鹿にしてるの⁉ バレるとかの問題じゃないでしょ!」
「コイツ何したか忘れたの? アタシ達の友達と先輩、ズタボロにしたこと」
「うぅ……!」
梨絵は痛みを耐えて立ち上がった。
「動けるの……?」
いきなり立ち上がった梨絵に驚くが、冷静に模擬銃で狙って撃つ。背中にゴム弾を四発受け、梨絵は教室の真ん中に倒れて動けなくなった。倒れた拍子に、持っていた二冊の聖書が投げ出される。
痛みで悶える梨絵に近づき、腹部に蹴りを入れた。爪先が偶然、肝臓部分にめり込んで吐きそうになった。髪の毛を掴み、顔を上げると仰向けにさせた。
「アンタのせいで、先輩は二度と陸上競技でハードルを跳べなくなった。友達はアンタに投げ飛ばされて、今もまだ車椅子で生活してる。リハビリしてるけど、元通りになるかわからない。覚えてる? 覚えてるかって聞いてんだよ!」
馬乗りになり、感情に任せて殴り続けた。
「友達や先輩達を傷付けといて、コイツにはなんの罰もない。納得できる訳ないでしょ! 高坂先輩は陸上で大学推薦貰ってたのがなくなったし、明美はもう歩けないかもって泣いてた。たくさんの人の人生ぶち壊しておいてよく涼しい顔できるよなぁ⁉ なんか言ってみろよ、おい!」
梨絵は痛みで半ば混乱し、呼吸が荒くなっていた。いつも静かにしている彼女ではなく、今はただ怯えている。体がうまく動かない。痛くて、恐くて、涙が出る。
「やりすぎだって!」
「うっせぇんだよ!」
止めに入った生徒を突き飛ばし、数回殴って模擬銃を体に押しつけた。
「こんなの、死んだってかまわないでしょ」
模擬銃を持つ彼女が恐ろしい。
暴力を振るう人間が恐ろしい。
そんな考えもむなしく、生徒は引き金を引いてゴム弾を腹部に撃ち込んだ。
◇
小さな腹部に、大人の男の蹴りがねじ込むように入った。吐き出すようなものはなかったのに、黄色い胃液を無理矢理吐いた。
『何で泣き止まねぇんだこのガキ!』
『梨絵は関係ないでしょ! お願いだからやめて!』
『テメェが勝手に孕んだんだろうが! 喧しいんだよ!』
叫んで殴り、痛いから泣いてもやめなかった。その男を止めようと女はしがみつくが、振り払われるばかりか顔を殴られ、蹴られていた。
微かに思い出した記憶。嫌な記憶。消し去りたい、忘れたい記憶。
男の表情が恐ろしい。
記憶を忘れても簡単に消えるものではなく、彼女の中に根付いてしまった恐怖である。
その恐怖を、思い出した。
その恐怖を、一刻も早くなくしたかった。
再び苦痛と恐怖を覚えた。梨絵の意思とは関係なく、梨絵の内に潜む【NE】を刺激した。
怖い、恐い、こわい。こわい。こ■い──
とて■こわ■。と■■とても■わい!
『
甘く囁く、優しい殺意。
梨絵の意思と体は【NE】に支配されつつあった。
◇
梨絵は手を伸ばし、転がっていた椅子の脚を掴むと笑っていた生徒を全力で殴った。
「ぎゃっ⁉」
殴られた生徒は転げ回り、模擬銃を落とす。
突然のことで誰もが動けなかった。殴られた当の本人でさえ、自分が殴られたとわかるまで長かった。左腕がくの字にへし曲がり、鼻が折れて鼻血が止まらないことで、ようやくわかった。
「…………え、ああ……ああ、ああああぁぁっ……⁉」
殴られた生徒は鼻血を止めようと手で塞ぐが、止まる気配はなく溢れ続ける。痛みより、血が止まらない恐怖が勝っていた。
静かに立ち上がった梨絵を見て、生徒達は言い表せない恐怖を感じた。
「この……!」
入口にいた生徒が模擬銃を取ろうとしたが、梨絵は椅子を放り投げて阻止した。間一髪で躱したものの、衝撃の強さで変形した椅子を見て腰を抜かしてしまった。
「止まらない、止まらないよぉ……!」
止めることに必死で梨絵にまったく意識が向いていなかった。首を掴まれ、床に屈服させられ、馬乗りにされた。先程と真逆になった。
「あ、がぁ」
首が折れそうなほどの強さで掴まれ、か細い声しか漏らせない生徒は助けを求める。だが梨絵の異常を知り、他の生徒は助けることはおろか動くことすらできない。
梨絵は空いた右手で、近くにあった机の脚を掴む。軽々と持ち、静かに振り上げた。
「ひ……まっ……!」
生徒は声を捻り出すが、梨絵には届いていない。今の梨絵は、彼女であって彼女でない。
いつも淡い瞳の色が強く光っていた。次の瞬間、振り下ろされた机で見えなくなった。
◇
「何で勉強道具忘れちゃうかなぁ」
「ごめんごめん」
真由は友達と教室に戻っている最中だった。文芸部に所属している友達は座学が優秀で、今日は勉強を教えてもらう約束をしていた。部室に着いてすぐ勉強はせず、三〇分ほど雑談したりお菓子を食べたりしていた。いざ勉強しようとしたら、あろうことか教えてもらう真由が教科書を忘れてきたと言う。やる気が感じられないと言われる始末だ。
教室には誰もいない。真由は梨絵の姿がないことを確認し、佑一が迎えに来たのだろうと思った。自分の机から教科書を取り出す。
「やっぱりあった」
「あのさぁ、本当にやる気あるの?」
「だからごめんって」
「もう……」
呆れた友達が愚痴を言おうとした時、発砲音が響いた。真由は反射的にその場でしゃがんでしまう。
「銃声……?」
「……校内は原則発砲禁止だよね?」
「誰か整備ミスって撃ったとか」
誰かが間抜けなことをしたかと思って真由は立ち上がる。
また発砲音。今度は立て続け。明らかに整備中のミスなどではない。
「ここで待ってて!」
「え、ちょっと。危ないって!」
真由は教室を飛び出し、友達も一人で待たされるのが怖くて後を追う。
発砲音がした北側の一番端の教室。入口に尻餅を座っている生徒が見えた。それが同じクラスメイトだということと、他のクラスの生徒だとわかった。
「何してるのアンタ達!」
「い、伊崎……」
クラスメイトが怯えている。ただならぬ事態なのは明白だった。入口に手をつきながら真由は教室を覗く。
教室の中央。生徒に馬乗りになり、片手で机を持ち上げていた梨絵の姿があった。
「────は?」
一瞬、何でこんな状況になっているのかわからず、真由の思考は止まってしまった。しかし梨絵の行動がヤバいと本能的に感じ、叫んだ。
「梨絵っ!」
聞き慣れた声を聞いた時、ほんの僅かながら梨絵の正気が戻った。振り下ろした机は生徒の顔面を潰すことはなく、数センチ横の床に叩きつけられた。その衝撃と小さな破片を生徒は間近で感じた。もしこれが自分の顔だったらと想像すると、恐怖で失禁して泣き出した。
「…………まゆ?」
──様子が違う。
真由でさえ今の梨絵がおかしいということがわかる。
梨絵であって梨絵ではない。獣とは違う何かがそこにいて、自分の名前を呼んだ。
正直、怖い。だが真由は梨絵に、いつもと同じように接した。
「……佑一来なかったの? 一緒に行こう。一緒に帰ろう」
「佑一……佑一──ゆういち?」
そうだ。佑一は来なかった。いつまで待っても来なかった。一人で待っていたのに。ずっとずっと待っていたのに──
あの日もずっと、迎えに来るのを待っていた。
研究所の預かりスペースで、ずっと待っていたのに。
誰も迎えに来てくれなかった。
「ああ……あああああ、うああぁあああ」
頭の中がぐちゃぐちゃになってくる。知らない記憶が混ざり合う。まるで知らない誰かの記憶が自分の記憶のように思え、梨絵は自分が何者なのかわからなくなった。ノイズが酷い。頭が割れるように痛い。どす黒くて禍々しい波によって塗り潰されていく感覚。
【NE】の寄生と侵食が始まっていた。
「うああああぁぁうぅぅああああ■■■あ■■■ああああああああああ!」
なにもかもわからず、なにもかもが恐怖の対象としか映らない。悲鳴をあげ、手にしていた机を真由へ投げた。
──躱したら当たる!
真由は躱そうとするが、友達やクラスメイトがいる。守ることを考え、咄嗟に机を盾代わりにした。防いだものの、その衝撃は手が痺れるほどに凄まじい。
「っ……私が引きつけるから、アンタ達で倒れてる子助けなさいよ。あと、志乃。佑一呼んできて。多分、専用教室棟の事務室にいるから」
「でも真由……!」
「早く!」
意を決した友達は走る。真由は、自分に注意を向けるように考える。
──ごめん!
攻撃することに戸惑いはあったものの、机を手放し、転がっていた椅子を梨絵に投げる。梨絵は簡単に躱し、真由に向かってくる。その速さは全力だった。
間合いを詰めた梨絵は突き蹴りするが、真由は再び机を盾にする。
「今!」
叫び、真由は怯まずに前に出て、その間に倒れている生徒を救出させた。
一つ片付いたことに安堵するが、その安心はすぐ消え去った。梨絵が、今度は椅子を持って向かってくる。
「ちょっと嘘でしょ⁉」
振り上げたのを見て、上半身を守ろうと机を構える。
が、椅子は振り下ろされず、無防備になった真由の足に鋭い蹴りを見舞った。頭への攻撃はフェイントだった。
「ぐうっ……!」
痛みに喘ぐ真由だが休む暇はなかった。机が下がった瞬間、椅子が振り下ろされた。躱しきれず、椅子の脚部分が真由の左腕に直撃。そのまま倒れ込んでしまうが、すぐに立ち上がる。
「いった……」
酷い打撲で左腕が痛む。骨は折れていないだろうが、もしかすればヒビが入ったかもしれない。
それでも真由は逃げることはしなかった。梨絵をなんとかする為││友達を守る為に。
「……何してんの、佑一」
だから、無性に腹が立っていた。
「迎えに来ないから、梨絵、泣いてるじゃんか」
◇
今後の部隊運用の為、佑一は栞と一緒に事務室で話し合っていた。
話を終え、佑一は資料を片付ける。栞は背伸びをし、事務室に持ってきたコーヒーメイカーでコーヒーを淹れる。これも栞と真由が持ってきたもので、この事務室を溜まり場にしようとしていた。今のところ、使うのは佑一と寺井、栞と真由の四人だけ。
資料を片付け、ふと机の隅に置いていた小さなケースを見る。中には、梨絵が暴走した時の為にと藤村から渡された鎮痛剤が入っている。今のところ、これを使う機会がないことに安堵する。
「そういえば、梨絵ちゃんを迎えに行かなくてもいいの? 結構待たせちゃってるけど」
「……しまった」
「早く迎えに行かないと泣いてるかも」
「宥めるためにコーヒー淹れて待っててくれ」
足早に事務室を出ようとした時、勢い良く開かれた扉に佑一は驚いた。開けた本人も「わっ!」と驚いている。
「君は確か……真由の友達の」
「原川っ、志乃です……っ!」
眼鏡をかけた生徒が、真由の友達で一緒にいることを覚えていた。
その友達が、走ってきたのか息を荒くしている。なんとか呼吸を整えながら口を開く。
「真由が……里林さんと……!」
◇
「ちょっと待って!」
事情を聞いた佑一は、ケースをポケットに入れて教室に走った。栞は真由の友達に、職員室にいる寺井に知らせるように言って、自分も佑一の後を追う。
渡り廊下を走っていると、普通教室棟の二階、北側一番端の教室の窓から椅子が投げ飛ばされたのを見た。
「なにあれ⁉」
「あの教室の場所は⁉」
「右に曲がって真っ直ぐ、一番奥!」
普通教室等に入り、遠くから数人の生徒が固まって座っていた。酷く怯えていて、一人は鼻血を流し、左腕が折れ、泣きじゃくっていた。
「梨絵!」
教室は酷い有様だった。机と椅子はめちゃくちゃに転げ回り、へこんだり、曲がったりしている。窓ガラスは投げられた机や椅子により割られ、破片が教室内に飛散している。
その中央。小さく唸りながら、椅子を持つ梨絵の姿があった。
【NE】化が進んでいることを一目で梨絵の状態を察した佑一は、ポケットの中のケースに触れる。だがこれを使った時、今まで築き上げた梨絵の信用をなくしてしまうかもしれないとも考え、躊躇した。
梨絵が前を睨む。その先には呼吸を整える真由がいた。体は打撲や擦り傷で傷つき、所々血が流れている箇所もあった。
「なにこれ……」
「持っててくれ。手は出すな」
何故こんなことになっているのかわからず、絶句している栞に佑一はケースを預ける。
静かに教室に入り、壁になるように真由の前に立つ。
「…………遅いっての」
「悪い」
真由を栞に預け、梨絵と対峙する。酷く怯えている様子で、泣いていたのか目が赤く腫れている。両目の輝きが強く感じられる。
「遅くなってごめん。すぐ迎えに行かずに悪かった、帰ろう」
優しく話すものの、梨絵は唸るだけだった。【NE】に抵抗しているのか頭を抱え、痛みに悶えるかのようだった。
「梨絵」
「うああぁああぁ……ああああ■■■ああぁ■■ああああぁぁっ……!」
──俺のこともわからなくなっているのか。
予想以上に【NE】化が進行していることを知り、佑一は無力化することを決めて構えた。
「ああああ■■■あ■■■あああああああああ!」
梨絵は吠え、椅子を振りかぶって佑一に突進。戦闘と同じ速度──いや、それ以上だった。振り下ろされた椅子を横に飛んで躱した佑一だが、梨絵は既に次の体勢に移っていた。佑一を追いかけ、椅子を容赦なく叩きつける。
──速過ぎて躱しきれない!
躱すばかりではいられなくなり、佑一も転がっていた椅子を拾い、振り下ろした椅子を防ぐ。梨絵が大きく仰け反った隙に椅子を持ち替え、脚を使って床に拘束しようと試みる。
が、梨絵は跳んで後退。あろうことか、壁を蹴って跳躍し、再び向かう。
「なっ……⁉」
想像すらしていない身体能力に佑一は受け止めることで精一杯だった。それでも全力で振り抜かれた梨絵の一撃は、佑一を吹き飛ばすには充分な一撃だった。
吹き飛ばされながらも体勢を立て直すが、梨絵は目の前にいた。躱せないと悟った。振り上げた隙を狙い、組み伏そうと前に出た。
「うぐっ」
しかし、梨絵の動きが突如止まった。全身が痺れて小刻みに震え、力が入らなくなって椅子を落とす。やがて膝から崩れ落ちた。
「寺井先生……」
寺井が教室の入口で、暴徒鎮圧用のテーザー銃を構えていた。テーザー銃は銃の形をしたスタンガンのような物で、電極とワイヤーが繋がっていて刺さった相手に電気が流れる仕組みの銃だ。
「何してるんだ、君達は」
呆れ、怒気を含んでいた。
「反省文どころの騒ぎじゃないぞ」
「助かりました」
「この場にいる者全員に事情を聞くが、今はこの子の拘束が先だ」
寺井が拘束しようとテーザー銃を下げる。それでも電流は流れたままで、決して油断した訳ではない。
「……うう、うう■■あう」
再び唸る。呼応するかのように瞳の輝きが更に強くなった。徐々に梨絵が動き始める。
「ああ■■■■ああ■■ああ!」
電流は流れ続けている筈なのに、梨絵は力尽くで電極を抜くと寺井に飛びかかった。
意表を突かれた寺井だが、即座にテーザー銃を捨てて身構える。
だが梨絵が飛びかかる直前、佑一が後ろから抱きつき、床に組み伏せた。両足で梨絵の胴体を締め、脇の下から両手を入れて手も使えなくした。
組み伏せて、なお暴れる梨絵の力は尋常ではなかった。力尽くで、佑一の拘束を解こうとする。
「ぐうっ⁉」
「佑一君!」
まずいと感じた瞬間、梨絵は佑一の右腕に噛みついた。血が滲むほど強く噛みつき、何度も何度も噛みつく。梨絵は佑一の右腕を噛み千切るつもりだ。
寺井は、ベルトのホルスターに入れているSIG P226を抜いた。引き金に指を掛けたことに佑一は叫ぶ。
「撃たないでください!」
「腕が喰い千切れるのを見ていろと⁉」
傷つけたくないのは寺井も同じだが、佑一が傷ついていくのを見過ごすことなど出来ない。どうすれば一番いいのかなど、この状況ではなにもない。
それでも寺井に撃たせたくはないし、栞に預けている鎮痛抑制剤も使いたくない。だが梨絵の【NE】化を見れば、使わざるをえない。それでも、使うなら梨絵を落ち着かせなければ意味がない。
──どうすればいい。
悩む佑一の目の端に、ある物が映った。ボロボロの背表紙の聖書が二冊、見えた。
神の御言葉が記された、母親と繋がっているただ一つの物。
「──『ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているのかを。主よ、あなたの恵みによって私を生かしてください』」
特に考えはなかった。ただ自然と、口に出していた。
梨絵の歯が肉を切り、痛みに耐えながら、耳元で優しく言葉を続けた。
「『みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとくとこしえに至ります。君主らはゆえもなく私を迫害しますっ。しかし私の心はあなたの言葉を恐れています。私は大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます』」
新約聖書の文章。梨絵が特に好きで、いつも声に出していた文章。佑一はそれを幼い頃に聞いていた。毎日と言っていいほど聞いて、一緒に言える程まで覚えた。梨絵が泣いていたり、癇癪を起こした時、宥める為に口ずさみ、落ち着いていた。
その囁きは梨絵の気持ちを落ち着かせていった。佑一の腕を噛むのをやめ、呼吸が落ち着いていく。口周りは血で汚れ、歯には少し肉がこびり付いていた。ぼそぼそと、佑一の言葉に重ねて呟き始める。
落ち着きを取り戻しているが、【NE】化が治まっている訳ではない。栞に手を伸ばす。ケースを要求しているとわかった栞は静かに歩み寄り、ケースを渡す。自分の血で濡れた手でケースを開け、薬品が入っている注射器を持ち、梨絵の腕に注射針を刺して流し込む。
「大丈夫。もう、大丈夫」
「……やだ……ねむりたくない」
「一緒にいる。遅くなってごめん。ごめんな」
優しく抱き締め、頭を撫でる。梨絵の意識がなくなるまで聖書の文章を口にする。重くなる瞼を閉じ、梨絵は眠るように意識を失った。噛みつかれ、自分の血で汚れた手は使わず、反対の手で優しく前髪を撫でる。泣いていて赤く腫れた瞼。流れていた涙を指で拭い、優しく頬を撫でた。眠っている顔はとても幼いが、前に見た時とは違い、怯えているように見えた。佑一の胸が締め付けられる。
「……寺井先生。ここの処理、任せていいですか?」
「かまわないが……君はどうするつもりだ?」
「梨絵を安全な場所へ連れて行きます」
聖書を拾い上げた佑一は梨絵を抱き上げて教室を後にした。誰も呼び止められず、真由や栞は声をかけることすら出来なかった。
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