第二章 あなたの好きなものは何ですか? 2
◇
翌日。佑一は住宅街を歩いていた。高級住宅が並ぶ一帯は、喧騒とは無縁と思えるほどに静かだ。
立ち止まった一件の住宅。モダン建築の白い三階建ての住宅には、二台分のスペースがある車庫と広めの庭があった。庭で遊んでいる男の子と、相手をする母親らしき女性がいた。眺めていると女性が気づいたので、佑一は会釈した。
「
「はい。そうですけど……」
細い体型と気弱そうな声の近藤綾子は答えた。佑一は手帳を取り出して近藤に見せた。自衛隊の所属を示す正式の証明書だった。《NE》対応の為に、自衛隊が発行した物である。
「突然すみません。私、自衛隊に所属する三上佑一と言います」
「はぁ」
「訪問させて頂いた理由は、近藤綾子さんにお話を伺いたかったからです」
「自衛隊……自衛隊の方が、私にですか?」
「里林梨絵のことです」
梨絵の名前を出した直後、近藤は動揺を隠しきれなかった。目は泳ぎ、思わず俯いた。
「……中でお話を」
「はい」
近藤は男の子を中に入れ、佑一を案内した。
自宅内は空間を広く見せる為に廊下をなくし、三階までは吹き抜けになっていた。男の子をリビングで遊ばせ、すぐ横のダイニングテーブルに佑一を着かせた近藤はコーヒーを淹れて出した。二人は向かい合って座る。
「彼女は聖書を持っていましたが、綾子さんが?」
「大学の時に聖書の勉強をしていたもので。授業で使った古いものでしたが、気に入ったのかずっと持って読んでいたので。あの子にあげました」
「綾子さんはどうして梨絵を施設に通わせたのですか?」
「あの子に自閉症の傾向があると病院で言われて。紹介されたのがあの施設だったんです」
あの施設。すなわちISC研究所である。
「自閉症?」
「私は小さい子供だからと思っていたんですが、医者の方が強く言うもので……その施設に通わせました」
「施設の料金などは?」
「紹介だと無料になるらしくて、全ての費用を出して頂きました」
治療目的と偽って研究所に通わせ、エクシードプランに加えさせるという、よくある手法だった。おそらく、医者もISCか研究所の関係者なのだろう。
「当時の貴方は大変な時期だったと伺っています」
「……ええ。当時の夫から暴力や、職場の上司からパワハラを受けていました。梨絵の為だと耐えていたんですけど、夫が浮気相手の下に出て行ってしまって。裁判も、相手に普段から精神状態に異常ありなんて言われて、いいように丸め込まれて……少ない慰謝料貰っただけで、家を追い出されてしまいました。そしたら、鬱になってしまいまして。……頼るものが生活保護しかなくて。生きることが辛くなってしまった時に、梨絵のことまでも苦痛になって……何度も自殺を図っては失敗しました」
「そんな時に、施設から梨絵を引き取らせてほしいと話がきた」
「……はい。話を聞いた時、真っ先に抱いた感情が嬉しかったんです。梨絵のことを他の人に任せられるって。……でもすぐに、駄目だって言ったんです。梨絵は私の娘なんです。それなのに……私は、梨絵を施設に……」
「彼女を施設に渡したんですね」
「だって苦しかったもの!」
昔の苦痛を思い出し、まるで責められているかのような問答。近藤の感情が爆発した。立ち上がって倒れた椅子の音で、子供が二人を見る。
「死にたいのに死ねない。痛いし苦しいし、生きていきたくないのに生きていかなきゃならない。生活保護まで貰って惨めに生きながら後ろ指指されることがたまらなく嫌だった!」
「ご家族に頼ることはできなかったんですか」
「実家は離婚した原因が私だって決めつけた。田舎じゃすぐに広まるから帰ってくるなって……誰も助けてくれなかった。それでも生きてきた。死にたいのに生きてる自分がたまらなく嫌いだった……こんな筈じゃなかった……。だから、梨絵を施設に引き取って貰って、お金が振り込まれた通帳を見たとき、これでやり直しができるって思ってしまった……」
泣き崩れた近藤を、佑一は表情を変えずに見続ける。
「最初は後悔した。なんてことをしてしまったんだろうって……だけど、だけど、自分の人生がやり直せることに希望を持ってしまった。鬱病が治せた。働けた。好きな人ができて、その人と結婚して子供だって授かった。私はそれで幸せだと思ってしまった。梨絵を忘れて、新しい人生を始めてしまった……」
「おかあさんをいじめるな!」
近藤に歩み寄ろうとした時、リビングで遊んでいた子供がブロック玩具を投げた。子供は佑一の足に殴りかかった。ただぽかぽかと殴るだけで痛くも痒くもなかった。
だが子供には、佑一が母親をいじめる悪者に見えた。悪者を退治する為、母親を守る為、子供は佑一に怒りをぶつけていた。
「おかあさんをいじめるな!」
「やめなさい!」
近藤が怒鳴りつけると、振り返った子供はかたまってしまった。守る為に戦っていたのに、どうして怒られなければならないのだろうと混乱した。その混乱は怒りをなくし、やがて悲しさに溢れていった。
泣き出しそうになった子供を、近藤は優しく、だけれど強く抱き締めた。
「違うの。違うのよ。悪いのは全部お母さんなの。ごめんなさい。ごめんなさい……」
間違いは自分だと言い聞かせる母親に、子供はきょとんとしていた。
その光景を見て、佑一はかつての自分と重なって見えた。
自分を抱き締めてくれた両親と、重なって見えた。
とても懐かしく感じ、同時に、失ってしまったものだと思い出した。
「君は、おかあさんが好きかい?」
「…………うん」
優しい佑一の問いに、子供は佑一を見上げて静かに頷いた。佑一はしゃがみ、ブロック玩具を握らせた。
「ずっと守るんだ」
立ち上がった佑一を、二人は見上げる。
「梨絵は、生きていますか……?」
「機密事項の為、お答えすることはできません。ですが、連絡して頂ければ掛け合ってみます」
その言葉で、梨絵は生きていることを知った。
「突然伺ってしまい、申し訳ありませんでした」
メモ帳に携帯番号を書いてテーブルに置く。深々と頭を下げて佑一は家を出た。玄関の扉が閉まり、子供は口を開く。
「あのひと、どこかいたかったのかな」
「え?」
「だって、なきそうになってたよ」
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