第12話

 アスム地区では、時間がゆったりと流れていた。


 そしてオルミスの中でありながら、ユニオンとも無縁の生活は、あっさりとルノからそれまでの生活を昔のものとし、オルミスの中心部の賑わいを遠いものにしてしまった。


 少し前までエトとはほぼ毎週のように会っていたのに、もうさっぱり会っていない。竜の子だとばれてしまったのだ。会いに行くことなんて無理だし、そもそも接触を避けたほうがいいだろう。


 エトのほうもルノを訪ねることはもちろんなかった。


 ルノが竜の子だと知ってしまったから、もう元の関係には戻れないだろう。



 その日、いつもならどこかにフラフラと出かけるリヴェータは昼過ぎになってもどこにも出かけず、自室で初めて目が会ったときと同じように窓の桟に肘をつき、通りを見下ろしているようだ。


 彼が風の竜だと知った今なら、彼が風を読んでいるのだと分かる。


 ただボーっとしているように見えるけど、彼は風であちこちを探っているのだ。


 そして探ったことをアスム地区の人々に伝えて日銭を稼いだり、時には自分が必要だと考えたことを実行しているのだという。


 アーノンが言うにはリヴェータはオルミスの中でのことなら大体探れるのだという。そして遠方でも集中すれば変化に気付くことも出来るという。


 だからエヴァンが帰ってきたことも、いち早く知ることができたようだ。


 そう考えると、風の力というのはますます侮れない。



「リヴェータ様、お茶が入りました」



 アーノンに二階の自室にいるリヴェータにお茶を差し入れるように頼まれたルノは、閉められた引き戸の前から部屋の中に声をかける。


 このリヴェータの家は北の帝国様式だ。


 アスム地区の中でも浮いているが、彼がここに来て長いということもあって、もう誰も気に留めていないようだった。


 そしてこの家での生活も帝国式に倣っている事が多々あった。


 扉が引き戸なので、入室する際ノックはしない。控えめな声で中に伺うのだ。


 いきなり戸を引くのは当然失礼で、相手が許可するまで入室はしない。


 方式は違うが、マナーというのは大体どこも同じようなものだ。



 それでもルノはここでのやり方に慣れるまで少し時間がかかった。もっと言うなら、今でもついうっかり間違えてしまうことがある。



 前世の日本だったなら、室内で靴を脱ぐのは普通だったが、二十数年この世界で室内でも靴を履いていたせいか、土足で家に上がってしまうことも度々ある。



 部屋の中から返事が来ないので、ルノはもう一度呼びかける。



「リヴェータ様?」


「ああ、ルノか。何だ」



 どうやら彼は風で外を探るのに夢中で、部屋の前にいるルノになかなか気が向かなかったようだ。



「お茶が入りました。少し休まれてはいかがですか?」


「そうさせてもらおう」



 そう返ってくるやいなや、目の前の引き戸が静かにわずかに引かれた。


 リヴェータが風で動かしたのだ。


 お茶を持ってきたルノが盆で両手を塞がれているから、配慮してくれたのだろう。



「失礼します」



 ルノは片手で盆を抱えるようにして支え、引き戸を引ききり、体をもぐりこませた。


 窓辺にはいつものようにリヴェータが床に腰を下ろし、窓の桟に片腕を乗せている。



「この香りはセプ茶か」


「はい、昨日ツインさんに頂きました」



 セプという日陰に生えるにおいの強い草の葉のお茶だ。


 セプ自体は珍しくもなく、どこでも生えている。むしろ繁殖力が強くて一株あれば一年でその辺り一帯の日陰はこの草に占領されてしまう。この草の匂いを嫌う人も多く、セプ茶は好き嫌いの激しいお茶だった。


 それでもルノはこのセプは好きだった。


 薬の素材としても、日用品としても実に使い勝手がよく、簡単に手に入る。常に影の中に大量のストックを用意しておくぐらいだ。


 それに別に薬に加工しなくとも、この葉には即効性の下痢止め効果がある。もちろん効果を得るためにはそれなりに摂取しないといけないが、古くから生活の知恵として活用されてきた歴史がある。



 ただルノはこのセプに別の親近感を抱いていた。


 この草が生えるのは主に日陰。つまりルノが干渉できる影がある場所ということだ。


 だからつい癖でセプを探してしまう。何かあったときにそのセプの生えている日陰に干渉できるように。



「ツインのセプ茶か。なら良いものだな」



 リヴェータは口元を綻ばせ、程よく冷やされたセプ茶に口を付ける。


 ツインというのはこのアスム地区に暮らす妙齢の女性で、とにかく器用な女性だった。彼女のご主人が釣ってきた魚を捌くのも、干物にするのも、もしくは燻したり、酢漬けにしたり、何をさせても見事に美味しくさせる天才だった。


 この家の台所を預かるアーノンも、彼女に火の力を提供する代わりにおすそ分けを貰うこともあるという。



「そういえばお前、前に力が暴走したのはいつだ」


「えっと、オルミスに来る前ですから、三、四年ほど前です」


「そんなに前か。うまく力をいなしてきたんだな。だが、いつ暴走してもおかしくないだろう」



 と、リヴェータがふと部屋の出入り口である引き戸を見遣る。ルノも釣られてそちらを見遣ると、黒猫が部屋から出て行こうとするところだった。



「フー! 駄目よ、影に戻って!」



 ルノの叱責に黒猫は弾かれたように振り替えるも、するりと体を引き戸の隙間に滑り込ませて、廊下に出てると、戻ってこなかった。



「もう!」



 いつの間に影から出てきたのだろう。ルノは全く気が付かなかった。


 ここ最近大人しくしていたと思ったが、どうやらルノの様子を伺っていただけらしい。



「あの猫はお前の初めての影の僕だったな」


「はい」



 これまでのことはかいつまんでリヴェータに伝えていた。



「だとしたら、お前の僕の中で、あの猫は最上位ということになる」


「そうなんですか!?」


「そういうものだという。あれは他の僕と違うだろう」



 言われて見れば、心当たりはいくつもある。


 影の僕だというのに、ちゃんと言うことを聞いてくれないことがよくある。


 でもそれはフーが猫だからだと思っていたが、違ったのだ。



「あれの動きをよく見ておけ。あれはお前の影の力を忠実に体現するものだ。あれがお前の言うことを聞かないということは、力の暴走が迫っていることを示しているだろう」


「そんな……」


「この後時間はあるか?」



 ルノは頷く。



「それなら少しここを離れるぞ。ここで力を暴走させるわけにはいかないからな」


「はい。でも力の暴走を抑えたほうがいいのではありませんか?」



 力が暴走するたび、ルノの影はグッと広がる。


 だから、それまで以上に影に何かを詰めなければならないということだ。



「力の暴走は成長痛みたいなものだ。それを起こさねば力は伸びない。竜として幼いままだ。それにいずれは暴走はなくなる」


「そうなんですか!?」



 この煩わしいことが終わるということにルノは純粋に喜んだ。だが次の言葉でルノの表情は固まる。



「あと五百年もすれば起きなくなるだろう」



 それはまるで死刑宣告のように聞こえた。

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