第9話

 エヴァンの帰還からオルミスの空気が変わった。


 彼の帰還はエルウィンを通じてすぐ様彼女が長年働きかけていた貴族に伝えられ、やがて市民の耳にも届くようになった。



 先日の皇国船団襲撃からこれまで、国王は何の反応もせず、それが市民の怒りと失望を招いていた。


 ルノ自身、国王は西岸の海軍の増強でもしてくれるだろうと思っていたのに、全く何もないのが信じられない。


 日増しに市民の国王への反発感情は高まっていて、そこに元王太子エヴァンの帰還となり、彼を歓迎する空気となった。



 彼が王位を奪還するのは当然誰もが気づくことで、誰もそれに異を唱えようとしなかった。


 オルミスという街は、彼の実質的な本拠地となったのだ。



 王国は東西に大陸を横断している。


 大陸全土で見ると、王国は帝国に次ぐ領土を保有している。そして、その広大な領土ゆえに東の端に座する国王の権威が西まで届きにくい。だから歴代の国王は東の王都と西のオルミスを抑えて、広い領土を長年手中に収めてきていた。



 ただ、今はその広大な領土が仇となった。


 二十五年前の王位争いでできた国内の亀裂は、ここにきて完全な割れ目となり、王国を東西に分けてしまったのだ。


 そしてエトの情報通り、ユニオンは今後必要になると予想される薬類の引き取り額を引き上げ、ルノは作り溜めておいた薬を全ておろし、表向き懐を潤すことができた。



 ルノも同じ薬を作り続けていればさすがに慣れるし、上達する。


 さらに人間の影の僕アルディオンという優秀なお手伝いがいるから、作業はかなりはかどった。


 ルノがアルディオンばかりを重宝するのが面白くないのか、いつもは勝手ばかりするフーが最近はたいていルノの目に付くところにいて、つまみ食いも無くなった。


 それどころか、突然の来客に慌てないように、とお気に入りの窓辺で丸くなったり、腹を出してへそ天をしつつ、窓の外へ気を配ってくれていた。


 その豹変いや、従順ぶりが逆に不気味に感じてしまう。



 でもそのおかげで安心してアルディオンと共に薬作りに集中することができた。



 ルノの部屋を訪れるのは、エトとユニオンでも仲のいい魔女ぐらいなものだけど、幸いにしてアルディオンを目撃されるようなことは全く無かった。



 今度フーに何かお礼をしなくては。



 ルノの元を頻繁に訪れるエトだったが、エヴァンの帰還もあってか先日以来やってくることはなかった。


 薬をおろしに行ったときにでも会えるかと思ったが、今まで以上にエルウィンから遣い回されているのかユニオンにもその姿はなかった。


 多分ただタイミングが合わないだけだろう。



 ユニオンの薬の買取値段の引き上げは一時的なものではなく、長いこと続いていた。


 それはエルウィンが万全な状態で王都へ攻め込もうと考えていることを伺わせ、ルノはその不穏な空気に緊張しつつ、薬を作り、ユニオンにおろし続けた。


 そんなときだった。


 街中の素材屋を回り、素材を集めようと計画していたところ、部屋の窓に何か軽いものがコツンとぶつかった。


 ここは下から石を投げて届くような高さではない。


 かといって海鳥がぶつかったような音でもない。


 顔を上げると、白くて薄い何かが窓ガラスに再びぶつかった。


 あれはエルウィンがエトを呼び出すときに使うものだ。ルノも何度も目にしたことがある。ルノに使われたのは初めてで、エルウィンがルノに用があるというのもまた珍しいことだ。


 あれでわざわざ呼び出すということは、よほどの急ぎの用なのだろう。


 ルノは帰りに素材屋を回って行こうと考え、部屋を後にした。








        ●  ○  ●








 ユニオンの玄関扉を押し開けると、いつも穏やかな活気に満ちている広間に息すらはばかられるような緊張が下りていた。


 扉を静かに押し開けたルノだったが、そのかすかな音すら広間に銅鑼のように響き渡るほど静まり返った空気に思わずたじろいだ。


 広間に強張る首を巡らすと、広間には二十人ほどの人が集まっていた。


 その人だかりの中心にはエルウィンがいた。そしてその後ろにエトがいて、エルウィンの横にはエヴァンが仁王立ちし、その向こうには海軍の軍服に身を包んだ白髪混じりの険しい表情をした男がいて、ルノを睨んだ。


 そして彼らに対峙するように、すらりと背の高い青年が一人。


 人数と、そうそうたる面々と対峙しているのに動じた様子も、腰が引けている様子も無い。


 まるでそ知らぬ風のように佇んでいた。


 男性であるが、髪が長くて、その横顔すら綺麗な顔立ち。麗しいという言葉がふさわしい。どこか見覚えがあるような気がした。


 どこで彼を見たのだろうか。


 記憶をさらい始めたとき、その彼がちらりとルノを見遣る。


 一瞬だけ、目が合った。


 たった、たったそれだけでルノは凄まじい恐怖に気圧されてしまった。彼が恐ろしい。彼には逆らえない。本能が訴えた。



 後ろの扉に張り付くように背中を押し付け、何とか立っているルノに広場の人々の目は様々だった。


 エルウィンはいつもと同じように見えた。エヴァンはルノを不審そうに見ていて、エトは今にも泣き出しそうだった。



 対して、エルウィンに対峙する麗しい青年は、もうルノに興味がないのか、ルノから真正面のエルウィンに顔を向けた。



「これで話は着いたな。俺たちは行かせてもらうぞ」



 淡々とそう告げると、彼は玄関扉に張り付くルノの方に向かって歩いてきた。


 ルノは慌てて彼に道を空けようとするも、石のように固まった足がもつれ、体勢を崩し、倒れそうになった。しかしそんなルノをこちらに向かって歩いていた彼は易々と、ごく自然に歩調を緩め、ルノの脇の手を差し込み、支えた。


 彼は短くも冷淡な声でルノに言った。



「行くぞ」



 彼はルノを片手で軽々と持ち上げ、立ち上がらせると、さっきまでの体の強張りが嘘のように解れ、彼の言葉に何の抵抗も疑いもためらいもなくルノは従った。



 彼は先ほど“俺たちは行かせてもらうぞ”と言った。


 しかし彼は一人しかおらず、複数形なのはおかしかった。


 だが今全てを理解した。彼はルノも行くと言ったのだ。



 堂々とユニオンの扉をくぐって出て行く彼の後を、ルノは追った。

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