第3話

 ルノのあの愛用の肩掛け鞄は、見つからなかった。


 海に落ちた日、あと少しで日が暮れることもあって、もう鞄を探すことはできなかった。翌日、エトは別の船を借りてきて、鞄を探すために海に出たが、やはり見つけられなかった。



 エトだけでなく、エルウィンもあの鞄を探すために商船や漁船に通達を出した。あの鞄を見つけた者に金貨十枚というたった一つの鞄に対して、破格過ぎる懸賞金をかけたのだ。



 その懸賞金に釣られて多くの船乗りたちが海で鞄を探したが、やはり見つけられなかった。





 エトもエルウィンもとにかく必死だった。


 本来の持ち主であるルノ以上に、あの鞄を見つけ出そうとしていた。




 しかしそれも仕方ないことだった。


 あの鞄は、ルノが師匠から与えられた最後の課題という触れ込みだったのだから。


 中に何でも入って、入ったものは時間の経過をしない。まさに夢の鞄。どこかの青い電子狸顔負けの便利アイテムだったから。



 一方ルノは、落ち込んだ振りをしつつも内心とても、とても安心していた。


 あの鞄については嘘まみれだったからだ。


 鞄の中の影と自分の影を繋げて夢の鞄を実現させていただけ。魔力持ちを前にまさか竜の子であることを明かせるわけがなく、かといって影の力を魔法とうそぶいて怪しまれないようにしていた。


 エルウィンには強くその鞄の魔法の解明を薦められていたこともあって、いつか自分の正体がばれてしまうのではないかと気が気でなかった。



 その追求から、とりあえずは逃れられた。



 エトやエルウィンはまだ諦めていないようで、鞄が発する魔力を何とか拾えないだろうかと試行錯誤しているようだが、あれは本当にただの布の鞄なので、魔法の品がそうするように魔力を発することは決してない。


 心が痛むが、安心の方が勝っていた。



 ルノは晴れやかな心で魔法薬作りに精を出していた。



 鞄がなくなったことで、人前で影の力を簡単に使えなくなったが、むしろその方がいいのだ。


 竜の子だと気付かれにくくなる。


 別に影の力が無くなったわけではないし、ルノは鞄を失っただけで被害を受けたわけではない。



 これからもユニオンの魔女として細々やって行けばいいのだ。



 薬作成のために薬草を切り刻んでいると、日当たりのいい窓辺で前足を突き出して、伸びをしながら大あくびをかく黒猫が目に飛び込んできた。



 あの猫は悩みが無くていいな。



 そう思った瞬間、フーが顔を上げて目が合う。



『おなかすいた』


「昨日食べたでしょ?」



 ルノが咎めると、フーは面白く無さそうに丸くなって眠りについた。もしかしたら狸寝入りで、ルノの隙を突いて外に何かつまみにいくつもりかもしれない。


 しかしルノだってもう易々とフーを逃がすものか。


 今この部屋で開いている窓はルノのすぐ横にあるものだけ。空気の入れ替えが目的だったので、もう閉めてしまおう。



 昨日、ルノは市場で大量に買い入れをした。だから影の中は満杯とはいかないが、暴走しない程度に埋まっている。


 フーはなぜか満杯にしたがるけど、満杯になったらルノが辛いのだ。


 ルノは常にフーに気を配っておかなければならない。


 他の影の僕は暴走したときでなければ影から勝手に出てこないし、大人しくてルノに従順なのに、フーだけはどうしても完全に言うことを聞いてくれなかった。



 それでも暴走するときに比べたら、まだ聞きわけがいいけれど。



 フーが瞼を軽く上げて、ルノの様子を伺ったので、やっぱりルノの隙を突こうとしていると確信した。



「もう、不貞寝するぐらいなら、何か手伝ってくれてもいいでしょ」


『フーは猫だもん。ほかのにやらせてよ』



 こんなときばかり猫アピール。大体猫はしゃべらない。



「他ってトカゲとか?」



 トカゲより猫のほうがまだ役立ちそうだ。猫の手も借りたい、というぐらいだし。


 かといって、フーに魔法薬作りが手伝えるとは思えないが。



 ルノの影の僕の多くはトカゲだ。


 ラナケルでフーが勝手に食べてしまったアブラトカゲ。他にも牛とか、ラナケルの大火のときに食べたサラマンダーがいる。しかしサラマンダーは魔力を持つ生物のため、影の侵食が遅くて、最近ようやく全てのサラマンダーの僕化が終わった。影に入れてもう二年近く。魔力があるとずいぶん時間がかかるようだ。



 属性付きの僕はありがたいが、オルミスでユニオン所属の魔力持ちをしていても彼らの出番は生憎なかった。生活に火は不可欠だが、それはルノの魔法で事足りてしまう。彼らの火は強すぎるのだ。


 だから今までサラマンダーを影から出したことはない。



『ちがう。人間の』


「え、人間? 人間なんて」



 食べるわけ無いと口にしようとして、止まった。


 いや、あったのだ。


 二年ほど前、エトと出会った森で、ルノは影の力を暴走させてしまった。そのときフーが五人の人間をのみこんだ。


 影は貪欲なだけでなく、執着もすごい。一度取り込んだものは決して影で侵しきるまで外に出さない。



 フーがあの時飲んだ人間を確かめてみると、五人の内一人だけ完全に影に侵されきって、ルノの影の僕と化していた。



 一度でも影に入れられてしまえば、もうその人間を助けることはできない。ルノでもどうしようもないのだ。


 事故のようなものとはいえ、のんでしまった人間への申し訳ない気持ちで心が沈む。


 ルノは影にのまれ、今はもう影の僕と成り果てた人間を影から掬い上げるように外に出す。



 影からルノより大きな人影が現れて、形を成す。


 影の僕は、その体を黒に染めるが、人間でもそうだった。


 背丈、姿かたちは影に飲まれる前とおなじだろうが、髪は真っ黒、肌も黒、その姿は前世に読んだ漫画に出てきた、ダークエルフのようだった。黒人のような色ではないために、あまり健康的な肌色に見えなかった。


 それでも静謐で、影のように潜む姿であった。


 まさに影の僕だ。



 人間の影の僕をルノは見上げる。


 僕も、自分より背の低い主を見下ろした。


 目の色も黒なんだ。


 影の力の徹底した仕事に感心しつつ、ルノはその人間の僕に見覚えがあることに気が付いた。


 と、言っても直接あったことのある人物ではない。夢の中で見た、鏡の中に、髪の色や目の色、肌の色が違う、同じ姿形の人がいたのだ。



 アルディオンだ。



 その影の僕がアルディオンと分かると、ルノの中で一気にあらゆることが繋がってゆく。



 あの森で影の力が暴走したとき、フーがアルディオンを飲み、彼はルノの影の中で、影に侵された。その最中、ルノが見たアルディオンの夢は、彼の記憶だったのだ。



 後にそれは『影の追憶』という現象だと知った。


 影は知能の高い生物を取り込むと、その生物が持っていた知識や記憶を得るのだという。ルノはその規格外な能力に、影の力が恐ろしく思えた。



 今なら、森からルノを転送させた師匠の気持ちが分かる。


 それでももうルノには彼らのことはどうしようもなかった。できることとすれば、彼らの主として、彼らを活かすだけだ。



 ルノは、目を閉じて、アルディオンの記憶を軽く触れる。もうその記憶はルノが自由に触れられるものとなっていた。


 アルディオンは夢で見たとおり、この王国の貴族の生まれで、王都で育った。


 家は貴族の中でも上位に属し、名門と呼ばれるにふさわしいものだった。彼自身、家が保有する不動産の運営をきちんとこなし、将来も安泰そのもの。


 そんな彼がどうしてルノの影にのまれる破目になったのかというと、彼と彼の家の裏稼業に原因がある。


 アルディオンの家は代々暗殺者だった。


 それも王族に仕える由緒正しい暗殺者だ。


 アルディオンも、彼の父も、兄も、祖父やその先祖も、この王国の王が敵であると判断したものをその技で消してきた。


 そういえば夢の中で、彼は国王から誰かを殺すように命じられていた。


 どうやらその仕事の途中でフーにのまれてしまったというわけらしい。暗殺対象は子どものようだったが、王が敵と判断するとは一体どんな子どもなのだろう。


 アルディオンの記憶に触れても、その子どもに対してそれほど詳しく分からなかった。彼自身、思い入れも馴染みもある子どもではないらしい。


 あの追憶の夢では国王の側に赤毛で顔半分に刺青で覆った魔女がいた。彼女はフレイヤではないようだが、それでもあの奇怪な容姿が妙に引っかかる。


 あの赤毛の魔女はその子どもが魔法を教わるとか言っていたが、アルディオンの記憶をさらっても詳細には分からない。まだ判断材料が少ないようだった。


 そして何よりアルディオンも彼の周りの人間も、あの赤毛の魔女を良く思っていないようだった。



 ラナケルでは、フレイヤは竜晶石を求めていた。


 だとしたら、赤毛の魔女もそうなのだろうか。今、大陸は南下侵略を進める帝国と、それに抵抗する国々とで、戦火を上げていた。


 まだ地上の戦線はカナス公国という国の北にあり、抵抗を続けていた。


 王国は公国と同盟を結んでいることから、援軍を派遣し、公国を支援しているという。


 しかし、王国の兵派遣がもう二十五年続いていることを考えると、帝国がいかに粘り強い体力を持っているのかが分かる。伊達に大陸の北大半を支配下においているわけではないのだ。そしてそれを二十五年食い止めている公国や各国の援軍もなかなかだ。


 赤毛の魔女の目的はやはり竜晶石だろうか。国王の側にいれば、それだけ竜晶石が手に入りやすいだろうから。


 実際、エルウィンにも北の戦線から竜晶石が送られてきていた。


 もしかしたら、もう赤毛の魔女はとっくに竜晶石を持っているのかもしれない。


 だから国王が骨抜きにされていても、誰も抵抗できないのだ。


 国を手に入れるぐらい、竜晶石を手にしたものには容易いことのように思えた。

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