第2話

 顔に何か柔らかいものが何度も何度も押し付けられる。さらに時々鋭いものがチクリとささる。


 妙に痛かゆい感触が不快で、何とかしようと目を開けると、ルノの視界に黒いもやが大半を占めていた。



「うえっ! 何!?」



 慌てて体を起こすと、その黒いもやの正体はルノの体から転がり落ち、身を翻して華麗な着地を決める。


 愛猫のフーだった。


 どうやらフーがルノの顔に何度も前脚を押し付けていたらしい。



「フー、もう、何するの」

『ルノ、おきた』



 全くこの飼い猫にして影の僕は全く主というものを敬おうとしない。言うことを聞かないどころか、踏みつけるように前脚を押し付けるなんて。



 風が吹き付ける度に肌や服が妙に冷える。まるで体を洗った後のようだ。だが自分から濃い潮の香りがして、周りを見回すとエトや見覚えのある船員たちが安堵したようにルノを見ていて、ようやく自分の身に何が起きたのか、思い出した。



「そっか私、海に落ちたんだ……」

「ルノ、良かった。本当に良かった」



 すっかり見慣れた精悍で、絵本から飛び出してきたような金髪碧眼の王子様のようなエトはルノの傍らに膝を付き、その整った顔をくしゃりと崩して、今にも泣き出しそうだった。


 そのとき少年の頃の面影がのぞいて、彼は成長したけれど、やっぱりエトなんだと当たり前のことに気が付いた。



 エトをよく見ると、髪は濡れて額に張り付き、なぜか上半身は何も着ていない。さっきまで白いシャツを着ていたはずなのに。


 剥きだしの彼の体は目のやり場に困るが、ちゃっかり視界の端にとらえる。薄く割れ目の入った腹筋に、引き締まりこぶのついた二の腕。


 今の彼は魔術師であるというより、魔闘士という言葉にふさわしい。


 魔力持ちはどうしても魔法に頼りがちで、体作りという意識は低い。それなのにエトがそういう体をしているというのは、やはり好んで鍛えているのだろう。



「もしかして、エトが引き上げてくれたの?」



 ルノは再び実験をしていた船の甲板の上にいた。落ちたのは確かだし、濡れているのはルノとエトだけだった。



「そうだよ。水を飲んでいなくて良かった。吐いたのも少しだったし、すぐに引き上げられたから。どこか気になる所はある?」



 改めて自分の体に意識を向けるが、濡れて寒いぐらいで、どこか悪いところがあるように感じない。



「ないわ。ありがとう、エト」

「どういたしまして。とにかく無事でよかった。さ、港に戻ろう。散々な目に遭ったけど、実験の結果はちゃんと得られたんだから」



 エトは立ち上がり、船員たちに声を掛ける。


 船員たちはエトの言葉に頷き、再び船を動かすために動き始めた。先ほどとは違うのは、迫る船がないためにその動作は落ち着いていて、表情も余裕があった。



 ルノはエトの手を借りて立ちあがり、甲板の隅に置かれていた小振りの樽に腰を下ろす。


 船を動かすのにエトも何もできないので、ルノの隣で船員たちを眺めていた。



 今回実験に協力してくれたのは、以前ネズミ除けを作成したロイスの海運会社だった。今日のロイスは倉庫番だったので実験に立ち会うことができなかったが、この会社とエトは縁が深いらしく、顔見知りや友人が多くいるようだった。


 オルミスにずっといるらしいエトだが、ルノが思うより顔が広いらしい。



「おーい、エト。悪いが手を貸してくれ」



 船員の一人がエトに呼びかけ、エトは笑顔で応じる。



「すぐ行く。ルノ、悪いけどちょっと待ってて」

「私は大丈夫。いってらっしゃい」



 エトを見送った後、不意に声を掛けられた。



「魔女さん、もし良かったらどうぞ」



 声がしたほうを振り返ると、ルノより少し若いぐらいの船員が、布を手に立っていた。



「これで体を拭いてください」

「あ、ありがとうございます。いいんですか?」

「もちろん。寒かったら毛布も持ってきますよ」



 そうか、瀬取りでは人が海に落ちる事故が度々起きているのだ。当然、それに備えていろいろ積み込んであるわけだ。



「本当にありがとうございます。毛布は大丈夫ですが、布をお借りしますね」

「どうぞ。それにしても良かったですね。エトさんが助けてくれて」

「エトが飛び込んでくれたんですか?」



 海に落ちた瞬間は断片的に覚えているが、実際どうなったのかはよく分からない。救助されるときなんて意識もなかった。



「ルノさんが落ちたと気が付いたら、すぐに海を覗かれて、魔法で居場所を突き止めて、ドボンです。浮き輪を投げる間もなかったんですよ」

「後でエトにもっとお礼を言っておかないといけませんね」

「それに引き上げた後、エトさんがルノさんに魔力を吹き込んで意識を呼び起こしたんですよ」

「え?」



 それはどういうことだろうと、ルノは首を傾げる。



「ユニオンが考案した救命方法です。ご存じないですか?」



 ルノは首を振る。


 いくらユニオンの魔女とはいえ、知らないことのほうがずっと多かった。救命となると医療分野だし、ルノの得意分野とも異なる。



「ごめんなさい。勉強不足で……。どんな救命方法ですか?」

「何でも口から口に魔力を吹き込むもので、魔力持ちにしかできない救命方法ですが、救命対象は魔力の有無に関わらないそうですよ」

「へぇー、そんな方法があるんですね。ありがとうございます」

「いえいえ。私も話を聞いたことにはあったのですが、実際に見たのは初めてでした。私も魔力があったらできるんですが、こればっかりはどうしようもないですね」



 魔力持ちはオルミスでもそう多くない。確かに大都市で多く人が集まっているからユニオンのように共同体を作れるが、いつか聞いた話だと百人に一人ぐらいの割合でしかいないという。



 そして彼に教えてもらったとおり、ルノはもう一度自分の体にしっかり意識を向けてみると、確かに自分ではない魔力が体の中に渦まいていた。


 これがきっとエトの魔力なのだろう。


 本当に彼には助けられてばっかりだ。お礼を言うだけでなく、何か贈るのがいいだろう。彼は何が喜ぶだろうか。



「そういえばあの迫ってきた船はどうなったんですか?」



 エトの結界のおかげで接触はしなかったが、反動で損壊を受けていてもおかしくない。



「あの後すぐに去って行きましたよ。おどしだったんでしょうね」

「それじゃあ抗議をいれないといけませんね」



 軽い冗談のつもりで言ったが、若い船員は肩を竦める。



「言ったところで、あっちは知らぬ存ぜぬでしらばっくれますよ。海上でのことで、私たち以外証人がいませんからね」

「そうなんですね……」



 海上の現実を垣間見て、ルノは思わず目を瞬かせた。


 それにこっちの船の被害はルノが海に落ちた以外特になかったようで、相手の船も早々に去っていったということは、大した被害もなかったようだ。


 何だかルノの落ち損という気もしないでもない。



「ただいまー」



 エトが手伝いが終わったのか、軽やかな足取りで戻ってきた。


 彼の髪もまだ湿っていたので、ルノは水気を取れるように何か布を渡そうと手をいつものように鞄に差し込む。さすがにエトに自分が使った布を渡すわけにはいかない。


 ルノは手がなかなか鞄の入り口を見つけられないので、首を捻って、いつも鞄を提げている左脇腹に目を向ける。


「あれ」

「どうしたの?」



 エトが不思議そうにルノの隣の樽に腰を下ろす。



「鞄が、ない」

「えっ」



 さすがにそれにはエトも固まった。そして慌ててルノの鞄があるはずの場所を見下ろすが、やはり鞄はない。



「まさか」

「えっ、もしかして海に……?」



 ルノはさっき海に落ちたときに、愛用の鞄を落としてしまったのだ。

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