第三章

第1話

 海は穏やかだった。


 ほんの6ヶ月前、大海蛇が暴れて皇国船団を壊滅させたのが嘘のようだ。いや、海上だけでなく、オルミスの街自体も破壊の痕跡がかき消され、以前と同じような活気を取り戻していた。


 もちろん、全く以前と同じというわけではない。


 皇国が攻めてきたこと、竜の出現により人々の心のどこかには帝国への警戒が残っている。

 しかし顔には笑顔を浮かべ、できるだけ明るく居よう、強くいようという雰囲気が漂っていた。



「さて、そろそろ始めようか」



 舟の舳先に立ち、甲板の様子、船員たちの様子を伺っていたエトが声を上げる。エトの隣にいたルノも頷き、愛用の肩掛け鞄の中からその鞄に入っていたとは思えない大きさの黒い板を取り出す。


 鞄の中の影と自分の影を繋げ、そこからこの板を取り出したのだ。


 その黒い板は、魔力と親和性が高い岩石を削ったもので、表面を覗きこむと顔が映りこむほど滑らかで、つやつやした手触り。ルノは両手を広げて抱えるようにして持たないと、板を落としてしまいそうだった。



「僕が持つよ」



 見かねたのか、エトがルノから軽々と片手で板を取り上げた。



「あ、ありがとうございます」



 ルノはエトを見上げて、戸惑いがちに感謝の言葉を口にした。


 エトは、ここ数ヶ月でぐんと背が伸びた。まさに雨後のたけのこのごとく、少し前まではルノより少し背が高いぐらいだったのに、今では見上げなければその顔を見られない。


 背だけでなく、顔つきも引き締まり、体つきもごつごつして、喉仏も主張するようになった。


 もうエトは少年ではなく、青年だった。


 魔力持ちの成長は個人差があるというが、ここまで急に成長することがあるとはルノも思わなかった。


 そしてエトの成長はルノにある焦りを与えた。


 ルノは初めてオルミスと訪れたとき、つまりユニオンに加入したときとほとんど成長していないのだ。


 もちろん、魔女としての技量は上がった。それは間違いない。でも外見は何一つ変わっていない。それは魔力持ちであると同時に竜の子だからだろう。


 竜は魔力持ちより長命で、成長がより一層緩やかだから。



「あっちの船だったな」



 エトは海原の少し先にある同じ海運会社の船を見遣った。


 これからルノとエトはある魔法の実験を行う。


 ルノがラナケルの魔女という二つ名を得たあの魔法をちょっと手を加えて、海上運搬に役立てようと考えたのだ。


 だが、実はこれはちょっと危ない橋であった。


 あの魔法はすでにユニオンに全ての権利を譲渡した魔法。


 だからその魔法を用いて何かを開発するなら、相応の対価をユニオンに納めなければならない。だが、ルノはユニオンに黙って密かに実験を行うことで、その義務から逃れていた。


 ばれたときが恐ろしいが、ばれなければ大丈夫。きっと。



「光った!」



 黒い板には白いインクであの魔法陣が描かれている。


 かつてラナケルの大火で上空から水を撒き散らしたあの魔法陣だ。


 この魔法陣は離れた二つの場所を繋げている。しかしある程度近づかないとその二つの魔法陣は繋がらない。そして適切な距離をとって、魔法陣が繋がると、魔法陣が光るようになっている。



 一つ目の魔法陣はこの船の甲板。


 二つ目の魔法陣は先ほどエトが目をやった、もう一つの船の甲板の上。



 この実験は、この魔法陣を描いた板でどれだけの物を海上で運搬できるか、を確かめるものだった。


 魔法陣が描かれた板に問題がないことは、事前の地上での実験で確認済みだ。水平距離、垂直の距離、ある程度の限界をルノたちは把握している。


 あとはこれが海上で同じ結果を得られるかを確かめたい。


 オルミスの沖合いでは瀬取りが頻繁に行われているという。そしてそれは船を近づけて行われるために、人が海に落下するような事故も少なからず起きている。その原因はやはり船が近づくために起きるわけで、それを解消するためにこの魔法陣が描かれた板を使えないかと考えているのだ。



 魔法陣を描いたルノの技量、板に描かれた魔法陣の大きさから、二つの魔法陣が繋がる距離はそう遠くない。


 でも、船同士の接触を回避するには十分の距離だった。



 ルノはエトが主導する実験を一歩ひいたところで見ている。


 今回の実験は、いやこの開発はエトが発起人で、ルノが協力者の立場だった。それで不満はなかったし、最悪責任問題をうやむやにできるかもしれない、と踏んでのことだった。



 うやむやにできても、叱責はうけるかもしれないが。


 いや、ばれなければ大丈夫。ばれなければ。



 今回の海上での実験での不安な点は、ここが海上であるということ。


 波が絶え間なく船を揺らす状況で、地上と同じような結果を得られるのか。


 もし得られなければ、また魔法陣を改良しなければならないだろう。



 実験を見守るルノは船の縁の手すりに寄りかかり、エトや協力してくれている船の船員たちが言葉を交わす様子を見ている。


 どうやら地上の限界の距離に近づくにつれて、魔法陣の繋がりが安定しないようだった。



 次にどれだけ近づけば確実に繋がるのかを確かめることになった。


 元々瀬取りに慣れている船員たちは素早く動き、海上の二つの船は少しずつ距離を縮めていく。


 その間も魔法陣の繋がりの強さを確かめられ、まずまずの結果を出しているようだ。



「おい、あれ」



 ルノの近くで、実験を見守っていた船員が、隣の船員に声を掛けた。



「どうした、いや、あれはメニン商会か」


「だよな。あんなところで何をしているんだ?」



 船員たちは広い海原にぽつんとある、一隻の船を気にしていた。


 その船はこの船と同じ海上運搬の船らしい。ただこの船の所有会社とは別会社の、いわゆる商売敵。もう

一隻近くに船があったなら、瀬取りであろうといえたが、あの船は一隻だけだった。



 何をしているのか気がかりだが、それはこちらにも言えることだ。


 二隻の船が瀬取りとは言いにくい距離をとり、先ほどから妙な動きをしている。さらにここは海路から外れており、他の船もなかなか来にくい場所だ。ルノたちの船がここにいるのは、交通の邪魔にならないように実験をするためで、でもそれは逆に何も知らない人から見ると、怪しげな動きに見えてしまう。


 あの商売敵も、何かを疑ってこちらを伺っているのだろう。



 だが実験も大詰めを迎えているし、あの船との距離を考えれば、こちらが何をしているかなんて分からないだろう。


 気にはなるが、続行することにした。



 やがて二隻の船はお互いの船員の顔が分かる距離まで近づいた。大体馬車が横並びで二台ぐらいだろう。ここまで来れば、お互いに声を張り上げれば直接会話ができる。



 実験も無事に終わったことで、みんな気が緩んでいた。



「おいっ、あれ!」



 向こうの船の舳先にいた船員が悲鳴のような声を上げる。


 つられてみんな顔を彼が指差した方に向けると、先ほどこちらの様子を伺うように少し離れたところにいた商売敵の船が猛スピードでこちらに迫るところだった。



「避けろ、ぶつかるぞ!」



 船員たちはすぐに動き出す。


 すぐにあの船から逃げなければならない。そのためにはすぐに帆を広げ二隻の間を開けなければ。



「結界を張る!」



 エトは飛び出し、舳先に立ち、呪文を唱える。


 しかし彼の力を持ってしても二隻の船を囲う大きな結界は張れなかった。ルノはエトの手助けをしようと彼の下に向かおうとしたが、ようやく動き始めた船が大きく揺れ、手すりに倒れこむようにしがみついた。



 商売敵の船はもうすぐそこまでに迫っている。


 接触を避けるためにももっと離れないといけない。



 商売敵は結界が張られ、舳先に術者のエトが立っているこちらを重点的に狙うことにしたようだ。


 離れる二隻の船の、こちら側に真っ直ぐ向かっている。



 ルノも何かしなければと焦るが、船の揺れに立つこともできず、手すりにしがみつくしかなかった。



「うわっ」


 エトの結界は、船の接触という大きすぎる力を受け入れきれず、呆気なく破れる。だが結界と接触したことで反発が起き、向こうの船は向こうに弾かれ、こちらの船も大きく弾かれる。


 その衝撃波はエトだけでなく、船も船を急いで動かそうとしていた船員たちも、そしてルノも襲った。



 ルノの小さな体はあっという間に手すりから引き剥がされ、青々とした海へと投げ出されたのである。

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